虹色涙の魔法使い
ツバメ・キタル
第1話
「今日はここまでにしよう。もう休みなさい。暖かくして」
先生は、いつものように言い残して、居間を出て行った。
「は、い……」
アンジェリカがぎこちなく答えた声も、耳に届いたかどうか。
扉は
テーブルの上には、羊皮紙の便箋が広げられている。
手紙を鳥の姿にして送る初級魔法。一度も成功したことがない。
今日も、できなかった。
「アンジー、アンジー!なかないで!」
白い子兎のキルシュが駆け寄って、慰めてくれる。幼馴染みの彼だけが心の支えだ。
「や、やっぱり、私、弟子に、ふさわしく、ありません……っ」
自分で認めてしまうと、なおのこと悲しくなって、涙が止まらない。キルシュを抱き締めて顔を押しつける。
「あーん!はなみずつけないでぇ!」
キルシュは精一杯、身を
先生の名は、土の魔法使いテオ・フォン・コーボルト。
特権階級の
普段は聖なる山の中腹で、薬屋を営んでいる。
周囲は薬草園と菜園。庭には何種類もの花が咲き、目に鮮やかだ。時々、森の動物や鳥たちが顔を
店では、患者の症状に合わせて、たくさんのレシピの中から薬草を
ここは呼吸がしやすい。
あの息が詰まるような女子修道院よりも、はるかに。
あそこには戻りたくない。私の居場所はない。
――あの雑用係は、すぐに泣くのね。
――意気地なしで苛々するわ。
――泣けば許されると思っているのよ。
泣き虫だけは、どうしようもない。泣きたくて、泣いているわけではない。こんな性格、自分でも嫌になる。でも、言い返せなかった。
修道院長が、アンジェリカをテオの弟子に推薦してくれた時、不安より安堵が勝った。
ここにいたい。
でも先生は、いつまで待っていてくれるだろうか。
春に弟子入りしてから、もう一ヶ月ほど経つが、魔法を使える兆しもまったく見えない。
弟子を名乗ることすら、おこがましい。
ベッドに入っても眠れない。何度も寝返りを打ち、憂鬱な朝を迎える。
井戸から水を汲みジョウロに移して、畑に
雑用は慣れている。修道院では、菜園の管理や家畜の世話を任されていた。
亜麻色の髪はいつも
修道女たちは貴族出身の者が多く、何かと制限の多い修道院での暮らしに不満が溜まるのは当然で、そのはけ口にアンジェリカが選ばれるのは、自然な成り行きだった。
目の前を、黄色の蝶が通り過ぎて行く。
テオの第一印象は、「綺麗な人」だった。女子修道院を出るまで、男性というものをほとんど意識しなかったアンジェリカでも、そう思った。
すらりと背が高く、顔立ちも整った美青年。言葉遣いは丁寧で、仕草には気品がある。
漆黒の髪、首元までボタンを留めた黒いシャツに黒いスラックス、黒い革靴、手袋まで黒。
瞳だけが、
その瞳を、本当はもっと見たいのだけれど、彼はアンジェリカと目を合わせない。いつも無表情で、一度も笑顔を見ていない。
叱られたことはないから、怒っているわけではないのだと思う。
「……でも、失望されていますよね」
役立たずの弟子を貰って幻滅し、後悔しているだろう。胃の辺りが押し込まれたように痛む。
「アンジー、テオのこと、こわい?」
キルシュが、黄色の蝶を追いかけながら訊いた。
「いいえ、怖くはないです。こんなに綺麗な花を咲かせる方ですもの、きっとお優しい方なんだとは思うのですが……」
語尾は力なく
物怖じせず、テオと話すことができるキルシュが羨ましい。
「ここを、追い出されてしまったら、どうしよう……」
「アンジー、なかないで!かんがえすぎだよ!」
「ごめんなさい……」
ハンカチは、すぐに使い物にならなくなってしまう。
溜め息を吐いてそれをポケットにしまい、再びジョウロを持ち上げた時だ。
「あ」
予想外に重かった。
ふらついて、その場ですっ転んだ。
ジョウロが石畳に当たって跳ね返り、騒々しい音を立て、水を撒き散らしながら転がって行った。驚いた鳥たちがいっせいに飛び立つ羽音が聞こえた。
「アンジー!」
キルシュが駆け寄って来る。
「だいじょうぶ!?」
「だ、大丈……痛っ」
立ち上がろうとして、右足首に激痛が走る。
立てない。
心臓がばくばくと音を立てる。身体中をその音が駆け巡り、体温が上がり、汗が噴き出る。
家事ができなくなる。今よりももっと、役立たずになったら。
そうしたら。
大粒の涙が頬を伝った。
どうして、うまくいかないのだろう。膝を抱えて
「ぼく、テオよんでくる!」
「だ、駄目です、私の不注意なんです、これ以上、ご迷惑を……」
全部言えなかった。
テオがこちらに歩いて来るのが見えた。
アンジェリカは唇を噛んで目を伏せる。
――出て行け、お前など役に立たないから。
――弟子にするんじゃなかった。
――泣くな、許されると思っているのか。
どうしよう、そんなふうに言われたら。追い出されたら、行く宛もないのに――。
「痛むのか?」
テオが隣に屈む。震えながら頷くと、彼はアンジェリカの右足首に手をかざす。
淡い蜂蜜色の光が足を包む。それはとても暖かくて心地良く、気づけば痛みは引いていた。
「あ……え?痛く、ないです……」
はっとする。
土の魔法使いだけが使える治癒魔法。
習ったばかりなのに、思い出すのが遅すぎる。
「あ、あの、ありがとうございます!」
「今後は気をつけなさい」
「は、はい……あっ、朝食の時間ですよね、すみません、すぐにご用意します!」
「急がなくて良い」
テオはもう、アンジェリカを見ない。静かに私室へ戻って行くのを、半ば呆然と見送る。
「……追い出されませんでした」
「よかったねぇ、アンジー。あし、だいじょうぶなの?」
「ええ、全然痛くありませんよ」
くるりと一周回ってみせると、気持ちも軽くなった気がした。
「水撒きを終わらせましょう。キルシュもお腹空きましたよね」
「うん!ぼく、いちごのジャムがたべたぁい!」
キルシュは嬉しそうな顔で飛び跳ねた。
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虹色涙の魔法使い ツバメ・キタル @tsubakita
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