第30話 偽りの正義に、神の怒りを
丘を下る道の途中、草むらの影で、二人の男が息を潜めていた。
憲兵の斥候だ。
軍服は目立たない色に染められ、靴底には泥が塗られている。銃は持っているが、撃つためではなく、撃てる立場だと示すためにぶら下げている。
草の間から覗く先、道を下っていく二つの影。
男は背が高く、歩幅が一定。
女は小さく、半歩後ろ。上着の袖口を、胸の前で押さえている。
斥候の一人が、胸の内側から紙片を取り出した。
小さな記録帳。
インク壺の口が、かすかに光る。紙の匂いがする。
彼は膝の上で、短い線を引く。
――六の月二十日。旧監視塔周辺。不審な二名。
書き終えた瞬間、その線は事実になる。
遠雷の音よりも、静かで確実な力だった。
記録帳を閉じる音が、小さく鳴った。
その音は、後にもっと大きな音を呼ぶことになる。
だが今は、まだ誰もそれを知らない。
◆
同じ刻。
別の場所では、もっと露骨な火が息をしていた。
廃坑の奥。
湿った岩肌に、ランタンの灯りが揺れ、影が跳ねる。
壁に掛けられた灰色の布には、白い糸で刺された炎。灰の上に立つ光。
「灰と光」のアジト。
ルカ・ヴァレンは、木箱を伏せた簡素な壇に立っていた。
低い声がよく通る。
冗談めいた軽さも、皮肉も、今日は薄い。
代わりに、言葉が短い。
「今日だ」
それだけ言って、視線で仲間を一巡する。
元ベレシア兵の目。
旧王党派にも見捨てられた下層民の目。
帝国支配に怒るドゥスカの若者たちの目。
それぞれの目に、違う色の火がある。
「今日、最初の火柱を上げる」
声が落ちると、空気が熱を持つ。
「帝国もいらねえ!」
誰かが叫ぶ。
「旧王もいらない!」
別の声が続く。
ドゥスカの青年が拳を握りしめ、言葉にならない叫びを吐く。言葉より先に身体が動くタイプの怒りだ。
ルカは、手を上げて静める。
熱が上がりすぎるのを嫌う癖は、戦場の頃から変わらない。
「……まあ落ち着け」
その声が、少しだけ硬い。
壇の脇の机の上には、紙が並んでいる。
地図。手書きの見取り図。警備の交代時間の推測。
紙の匂いが濃い。
だが、その紙の端には、いつも同じ空白が残っていた。
――建物の構造。
――儀仗兵の配置。
――鐘の合図と、警備の交代時間。
外から盗んだ紙では埋まらない空白。
――地下の動線。
中を知っている者の目と手が必要な最後の一片。
(……来いよ)
ルカは、心の中でだけ言った。
「古い友人」と呼んだ男の名前を、口にはしない。
言ってしまえば、仲間の中でその名前が「ただの駒」になる。
それが嫌だった。
ランタンの火が揺れる。
遠雷が、坑道の奥で鳴った。
「鐘が二つ鳴る刻だ」
ルカは、淡々と言った。
その言い方は、まるで儀式の合図のようだった。
誰かが、入口の方を見た。
誰かが、息を飲んだ。
だが、布は揺れない。足音もない。
ルカは口角を上げかけて、上げきれずに噛み殺した。
「……いい」
声が、ほんの少しだけ荒くなる。
「ピースが欠けたままでも、火は上がる」
自分に言い聞かせるような言葉だった。
それが、指揮官としては最悪の言葉だと分かっているのに。
「動け」
短い命令で、仲間たちが動き出す。
工具。
爆薬。
火薬の匂い。
誰かの手が震えているのが見える。別の誰かの手は、震えない。震えない手ほど怖い。
ルカは、最後にだけ言った。
「偽りの正義に、神の怒りを」
その言葉が、九の月の湿った空気と重なり、仲間たちの背中を押した。
◆
爆発は、思っていたより小さかった。
――正確には、思っていた場所より外れた。
石の匂いが焦げる。
古い壁の漆喰が剥げ、白い粉が舞う。
火柱は上がった。確かに上がった。
だが、それは中心を食う火ではなかった。外郭を舐める火だ。
地下にまでは、火が回らなかった。
「……くそっ」
ルカの口から、短い罵声が漏れた。
冗談も皮肉もない、素の言葉。
誰かが叫ぶ。
「衛兵だ! 来る!」
足音が、石畳を叩く。
号令が飛ぶ。銃の金属音。
鐘が鳴る。
――二つ。合図の鐘。警備の呼吸が変わる音。
(やっぱり、あの一片が……)
ルカは歯を食いしばった。
紙の上の空白が、現実の壁になった。
空白は、埋めない限り、ただ穴であり続ける。
「散れ!」
ルカが叫ぶ。低い声がよく通る。
仲間たちが走り出す。影が裂け、闇に溶けていく。
ルカは最後まで残った。
残ることが、最初から決まっていたみたいに。
囮。
それもまた、戦場で身につけた癖だ。
誰かを逃がすために、自分が残る。
崩壊を遅らせて誰かを逃がす――あいつのやり方を、今夜だけは自分がやってしまう。
「ルカ!」
仲間の声がした。
ルカは振り返らない。
「行け!」
怒鳴る声が荒い。怒りの頂点の声だ。
それでも、その怒りの向け先は帝国ではなく、今ここで消えようとしている仲間の足を押すために使われた。
銃口が向く。
光が跳ねる。
石に弾が当たり、火花が散る。
ルカは腰のポーチに手を入れ、最後の小さな爆薬を握った。
派手に殺すためじゃない。追う足を一瞬止めるための火だ。
だが、その瞬間。
「動くな!」
背後から、銃床が肩に叩きつけられた。
息が詰まる。
視界が白くなる。
爆薬が手から落ち、石の上で乾いた音を立てた。
複数の手が、腕をねじる。
膝が石に落ちる。冷たい。
顔の前に、紙の匂いがする。――誰かが命令書を読み上げている。
「反乱分子。『灰と光』関係者だな」
その言葉が、紙の上で先に決まっていたみたいに滑らかだった。
ルカは笑いそうになって、笑えなかった。
笑えば、痛い。痛いのは、肩だけじゃない。
遠くで、仲間たちの足音が消えていく。
闇に溶けていく音がする。
(逃げたか)
それだけを確認して、ルカは息を吐いた。
吐いた息は、湿っていて、鉄の匂いがした。
雷鳴が、また遠くで鳴る。
空の雷に、地上の失敗が重なる。
(……中途半端だな)
昔、橋の上で吐いた言葉が自分に刺さる。
だが、それでも――。
ルカは、紙の匂いのする命令の声を聞きながら、目だけで闇を見た。
闇の先に、小さな生活の火がいくつも残っている。
その火が消えないように、今夜は自分が灰になる。
そう決めた瞬間、拘束の手が強くなる。
縄が食い込み、皮膚が痛む。
痛みの中で、彼はひとつだけ思い出した。
丘の上の旧監視塔。
鐘が二つ鳴る刻。
来るはずだった男の影。
(……来なかったな、エリアス)
それが裏切りなのか、守りなのか。
まだ、分からない。
分からないまま、九の月の夜は、地平線へ滑っていく。
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