第29話 迷いという名の揺らぎ
(聖イルミナ暦一〇三六年 六の月二十日)
六の月の名にふさわしく、朝から空が落ち着かなかった。
雲が厚いわけではないのに、遠くで、どこかの山肌を転がるような音がする。遠雷。
まだ雨は落ちてこない。なのに、空気だけが湿り気を帯びて、肌に薄い膜を張る。
家の中の匂いは、いつもと同じだ。
灰の匂い。
鍋の湯気。
黒パンの硬さ。
それに――紙。
紙だけが、今日はやけに主張してくる。
机の上の生活報告書の控え。神父が持ってくる通達の写し。ミラが練習に使っている切れ端。
燃やせば一瞬で灰になるのに、燃やさない限りは、ずっと残る匂い。
エリアスは、家の中を往復していた。
歩幅は一定で、床板のきしむ場所を避ける癖が出る。
窓の前まで行っては外を見る。戻っては、机の紙の上に視線を落とす。
それを何度も繰り返す。
落ち着かない、というより、どこに自分の身体を置けばいいのかわからないような動きだった。
「……エリアスさん」
ミラが呼ぶ。
いつもより少し高めの声で、語尾が小さく掠れた。
エリアスは足を止めないまま、「どうした」とだけ返す。
ミラは、手元の紙を一度整えた。
文字の練習に使っている、破れた祈祷書の余白。そこに書かれた自分の拙い線を、指先でそっと押さえる。
言葉を作ってからでないと、声にできない。
「……どこへ、行くつもりなんですか」
その問いは、まっすぐだった。
ミラの中で「言ってはいけない」と「言わないといけない」がぶつかって、そのまま口からこぼれたような声だ。
エリアスは、そこで初めて足を止めた。
返事を探す間の沈黙が、いつもより長い。
ミラは、沈黙に負けそうになって、あわてて理屈を足す。
自分でもぎこちないと思いながら、それでも言葉にしないと、怖い。
「……監督役として。行き先を知らされていないのは、困ります」
言ってしまってから、ミラは少しだけ顔を赤くした。
監督役。そう名付けられた紙の上の役目を、自分の盾にしてしまった。
エリアスは、その理屈の不器用さに、笑わなかった。
笑う余裕がない、というより、笑ってしまえば何かが壊れる顔だった。
「……村の外れまでだ」
結局それだけ言って、外套を取る。
ミラはほっとするように息を吐き、同時に胸が痛んだ。
「外れまで」という言い方は、いつも「それ以上は聞くな」の意味を含む。
「……はい」
彼女は頷き、急いで上着を羽織った。
小さくても、置いていかれるのは嫌だった。
エリアスの心を穏やかにするためには、そのままにすべきことは分かっていた。
それでも、今日のエリアスは、見送ってしまったら戻ってこない気がした。
◆
村を抜ける道は、麦畑の縁をなぞって続く。
穂先はまだ完全には金になりきらず、青と黄の間の色が風に揺れている。
その揺れが、今日は妙に落ち着かない。遠雷が、波の底に混じっている。
ミラはエリアスの半歩後ろを歩いた。
自分の歩幅を合わせるのが癖になっている。
追いつきすぎると、彼は無意識に速度を落とす。遅れると、彼は振り返る。どちらも、彼の優しさだと、最近は分かる。
村はずれの小さな鐘楼が、背後で低く鳴った。
――二つ。
乾いた鐘の音が二回、空気を叩く。
ルカが告げた言葉が、勝手に重なる。
(鐘が二つ鳴る頃)
エリアスの肩が、ほんのわずかに硬くなるのを、ミラは見逃さなかった。
丘が見えてくる。
その上に、古い影が一本、空に突き刺さっている。
旧監視塔。
戦争前から国境を見張っていた塔だが、いまは半ば放棄され、瓦も剥げ、石の継ぎ目から草が生えている。
それでも見えるというだけで、人の心を冷やす場所だった。
エリアスは、塔が見える位置で足を止めた。
立ち止まったというより、足が止まってしまったようだった。
世界の方が、彼の足首を掴んだみたいに。
ミラも止まる。
彼の横顔を見上げる。
頬の線がいつもより硬い。目だけが、塔と、その向こうの何かを見ている。
「……ここから先は、危ないんですか」
ミラは訊いた。
声は掠れ、語尾が小さくなる。
それでも、聞かない方が怖い。
自分でもまた、理屈を足してしまう。
理屈にすがらないと、怖いからだ。
「……監督対象ですから」
その一言は、彼を縛る鎖でもあり、彼を守る札でもある。
紙が作った役目が、ここでは生身より強い。
ミラが一歩進もうとした、そのときだった。
エリアスの手が伸び、彼女の肩を掴んだ。
強くはない。
だが、逃がさない強さだった。
ミラは息を止めた。
エリアスの声は低い。
怒鳴っていないのに、空気の方が震えた。
「ここから先は――俺の戦争だ」
ミラは目を丸くした。
戦争という言葉が、今の生活の中に突然混じってくると、身体が反射で固まる。
エリアスは続ける。
言い終えるまで、目を逸らさない。
「君の戦争じゃない」
遠雷が、ちょうどその言葉の後ろで鳴った。
空の雷と、地上の言葉が重なる。
ミラは、自分が小さくなったのが分かった。身体が縮んでいく。
沈黙が落ちる。
ミラは何か言うべきだと思った。
「監督役として」でも、「ドゥスカだから」でもなく、ただ自分として、何か。
けれど、言葉が出ない。出せない。出していいのか分からない。
エリアスは、ミラの肩から手を離した。
離し方が、丁寧だった。
丁寧であることが、余計に残酷だった。
「……悪かった」
エリアスは、視線を塔から外した。
言い訳をするような口調ではない。
ただ、紙の上では消せない線を、自分の中で消そうとしているみたいな声だ。
「何でもない」
そして、踵を返す。
「戻るぞ」
ミラは、その背中を見た。
背中が、どこか少しだけ軽くなっている。
軽くなった分だけ、何かを捨てた背中にも見える。
「……はい」
ミラは頷き、ついていった。
彼女の中で、何かが言葉にならないまま残っている。
けれど、それを今、問い詰める勇気はない。
生活の火を守るには、時々、黙るしかない。
それも覚えてしまった。
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