第27話 灰の旗と新たな光
(聖イルミナ暦一〇三六年 五の月〜六の月前半)
八の月は、畑の上では穏やかに熟れていく。
穂先は頭を垂れはじめ、麦の匂いが土から立ち上がる。
――本来なら、そういう季節だ。
けれど国境地帯では、別の匂いが先に広がった。
焦げた油と、濡れた鉄と、インク。
最初に騒ぎが起きたのは、まだ夜がほどけきらない頃だった。
貨物線の分岐点。枕木の継ぎ目だけが妙に黒い。
ボルトが一本、抜けかけている――目を凝らしてようやく気づく程度の、いやらしい細工。
車輪がそこに乗った瞬間、金属が喉の奥で泣くように軋んだ。
次の瞬間、乾いた衝撃が走り、貨車が蛇みたいにうねる。
積み荷の木箱が崩れ、麦袋が破れ、白い粉が夜明けの空気に舞った。
最近妙な頻度で起こる脱線事故だ。
死者は出ない。
けれど線路は止まる。
止まった時間だけ、村のかまどの火が細くなる。
夜が明け、駆けつけた憲兵が現場を見回し、舌打ちした。
すすけた壁に、白い石灰で乱暴に描かれた線がある。
灰を踏み抜くような黒い面の上に、細い火。
そして、その下に、文字。
――灰と光。
「旧ベレシア残党の、散発的な抵抗だ」
憲兵は、そう報告書に書いた。
その紙は、遠くの役所へ運ばれる。朱肉の匂いがつき、決まり文句が添えられる。
『治安上問題なし』
『見せしめで抑止可能』
『犯人の特定急務』
紙の上では、いつも解決したことになる。
だが、火は紙の外でも続いた。
線路だけではない。
物資輸送隊の荷車の車軸に、目立たない針金が巻かれていた日がある。
教会の「施しの倉」――そう呼ばれている徴税拠点の裏口の鍵が、いつの間にかすり替わっていた日がある。
旧貴族が領地の保全を口実に囲い込んでいる水車小屋の水路が、夜のうちに詰まらされた日もあった。
どれも規模は小さい。
どれも「すべてを焼き尽くす」ほど派手ではない。
けれど、標的の選び方がいやらしい。
帝国の銃ではなく、帝国の帳簿を狙う。
旧貴族の誇りではなく、旧貴族の取り分を狙う。
教会の鐘ではなく、教会の台帳と倉庫を狙う。
誰かが、どこかで線を引いている。
生活の火が細くなる場所だけを、正確に。
当局が本気で顔色を変えたのは、地図の上に印が増えてからだった。
「散発じゃない」
役所の机の上で、地図の端が指で叩かれる。
印は国境一帯に散っているのに、どれも同じ癖を持っている。
同じ場所を「壊す」のではなく、「止める」。
同じ印を残す。
同じ言葉を残す。
――灰と光。
報告書は、いつの間にか「残党」ではなく「組織」と書き換えられていく。
紙が危機を覚えると、現場には兵が増える。
兵が増えると、村の夜の灯りはもっと小さくなる。
五の月は、そうして国境を熱しながら、六の月へ転がり始めていた。
◆
その夜。
――エリアスと廃倉庫の屋上で別れた夜。
ルカ・ヴァレンは、村から距離を置いた丘を越え、さらに森へ入った。
月のない空の下で、枝が擦れ合う音だけが続く。遠くで雷鳴がくぐもって鳴り、地面の奥の湿り気が少しずつ温度を変えていく。
獣道の先に、崩れかけた岩肌が口を開けている。
廃坑――外から見れば、ただの穴だ。
だが入口に垂れた布が一枚、風向きを計るように揺れている。生きている場所の揺れ方だ。
ルカは布をくぐり、闇に沈む。
湿った岩の匂い。
油煙。
人の汗。
奥へ進むと空間がひらけ、粗末なランタンとロウソクの灯りが、すすけた壁を照らしていた。
箱や机が寄せ集められ、そこだけ「部屋」になっている。
集まっているのは、軍隊ではない。
元ベレシア兵。
旧王党派の下層民。
帝国の支配に怒るドゥスカの若者。
服装も年齢もばらばらで、立場も動機も揃っていない。
ただ一つ、同じものを見ている。
壁に掛けられた灰色の布。
即席の旗。
その中央に、白い糸で雑に刺された炎の印。
灰の上に立つ光。
ルカは外套を脱いだ。
明るい栗色の短髪が汗で跳ね、暗い琥珀色の目が灯りの中で燃え残りみたいに光る。
「帰ったぞ」
声に反応して視線が集まる。
その中心に、木箱を伏せた簡素な壇があった。
ルカはそこへ上がり、手にしていた擦り切れた革表紙の本を掲げる。
イルミナ書。灰篇。
それだけで、空気がわずかに硬くなる。
教会を憎む者もいれば、教会を恐れる者もいる。
だがルカは、その硬さをわざと撫でない。
むしろ、ゆっくりと本を開き、朗読を始めた。
「炎のあとに残ったのは、灰と石と沈黙だけだった……」
声は原典どおりのトーンで進む。
戦火で焼け野原になった土地を、名もない農夫が何年もかけて耕し直す話。
誰の領地だったか、どの貴族の紋章が立っていたか、やがて誰も覚えなくなる。
灰を混ぜ、石をどけ、汗で土を練り直し、「誰のものでもない畑」から新しい村が生まれる――。
黙って聞いている者たちの中に、先の展開を知っている目が混じる。
教会でこの寓話を聞かされたことがある者だ。
朗読を終えると、ルカは本をパタンと閉じた。
視線だけで周囲を一巡させ、飄々とした口調で言う。
「皆、子どものころに一度は聞かされた話だろう?」
そして、わざと教会が教える「正しい解釈」を自分の口で要約する。
「炎のあとで、黙って汗を流していれば、いつか実りが戻る。忍耐と赦しこそ、灰から立ち上がる光だ──だそうだ」
ここで、わざと一拍置いた。
ルカの口元が、皮肉気に歪む。
「……いい話だよな」
くすりと笑う者。
顔をしかめる者。
反応の差が、灯りの下で露骨に浮く。
ルカはもう一度本を開いた。
今度は、ある一文に指を置く。指先が紙の上をなぞり、そこだけ擦れたように見える。
「ここだけは、教会の連中も早口で読み飛ばす」
該当箇所を、声に出して読む。
「灰をひとつに混ぜてからでなければ、新しい畑は耕せない」
ルカはその一節に視線を落としたまま、低く言った。
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