第26話 夜の屋上ふたたび

 廃倉庫は村はずれにぽつんと立っていた。

 かつて穀物の集積所だった建物で、今は半分が空、半分が古い道具置き場だ。


 エリアスは闇の中で木箱を踏み、梁に手をかける。

 左脇腹が鈍く疼く。戦場で得た傷は、季節が変わっても偉そうに居座る。


「……黙れ」


 誰にともなく低く呟き、身体を引き上げる。

 天井板の隙間から冷えた夜気が漏れ、屋根へ這い出た。


 屋根の上は風が強かった。

 瓦がきしみ、草の匂いが遠くから運ばれてくる。


 そこに、人影が一つ、腰を下ろしていた。

 外套のフードは外されている。

 星明かりだけでも分かる横顔――笑うと片方の口元だけが上がる癖。


「遅いぞ、ローレン大尉」


 ベレシア語。軽い声。階級。

 だが軽さの裏に、長い時間が貼り付いている。


 エリアスは息を吐いた。


「……ルカ」


 ルカ・ヴァレンは笑った。


「生きてたな」

「お前もな」


 それだけで、しばらく言葉が切れた。

 抱き合う再会ではない。

 落とした橋と、落ちなかった夜が、二人の間に横たわっている。


 ルカが屋根の端を指で叩く。


「ここ、いい屋上だな。カルナの寮ほど眺めはないが」

「思い出話をしに来たわけじゃないだろ」

「まあな」


 肩をすくめる。その仕草が、昔のままなのが腹立たしいほど懐かしい。


 ――カルナ士官学校の屋上。

 まだ戦争が「これから始まるもの」だった頃。

 紅白戦で、貴族組と平民組に分かれて競い合った。勝敗は五分。最後の笛の直前まで、どちらも譲らなかった。


 その夜も月がなかった。

 暗いと、不思議と本音が言えた。

 瓦の冷たさと、盗んだ安酒の匂いだけが現実で、未来は笑い話にできた。


『負け戦の前は、月の出ねえ夜に限る』


 ルカが笑って言い、エリアスが「縁起でもない」と返した。

 その言葉が、いま同じ暗闇の中で、刃みたいに戻ってくる。


「……で、どうしてこんなところにいる」


 エリアスが問うと、ルカは空を見上げた。

 星が多すぎて、どれも同じに見える夜だ。


「国境じゅうが、燃えやすくなってる」


 それが最初の答えだった。

 具体名は出さない。所属も言わない。わざと他人事のように、口にする。


「少しばかり火遊びをしてる奴らがいる。帝国でも旧王でもない何かを、一度全部の灰から立ち上げたがってる馬鹿どもだ」

「……お前が、その馬鹿どもか」

「さあな」


 ルカは笑い、すぐに笑みを消した。

 次の瞬間、声の温度が変わる。


「お前、帝都の演説を覚えてるか? 『誰も処刑しない』。紙の上では立派だ。慈悲深い。光の言葉だ」


 ルカの指が、屋根瓦を強く叩く。


「でも現実はどうだ。紙の裏側で起きてることを、お前は見てねえのか」


 怒りが、言葉の端々から漏れてくる。

 ルカは一つずつ、名前を、具体を、投げてくる。


「士官学校で門番やってた……あの親父、覚えてるだろ。オルフェンだ。いつも朝に俺たちの靴の泥を睨んでた」


 エリアスは頷いた。

 痩せた男で、冬になると咳をしていた。寮の外で火を焚き、手を温めていた。


「オルフェンの息子が、帝国の鉄道事業に駆り出された。戻ってきたよ。……冷たくなってな」


 ルカの声が、一瞬だけ低く沈む。


「『労働は名誉だ』って紙に書いてあった。名誉の代わりに棺が返ってきた。紙はそれで終わりだ。終わってねえのは、残された親父だ」


 ルカは息を吐き、次を続ける。


「酒場で笑って給仕してたジェシカ。覚えてるだろ。俺たちが一度、金がなくてパン代を誤魔化そうとして、あいつに叱られた」


 エリアスの脳裏に、赤毛の女の笑い方がよぎる。

 あれは戦争の前の笑いだった。


「今じゃ帝国のきたねえ貴族の屋敷にいる。『働ける場所を与えた』ってことになってる。紙の上ではな。笑わなくなったってよ。なぜかは――わかるよな」


 言い切った瞬間、ルカの顎が僅かに震えた。

 怒りだけではない。悔しさだ。取り戻せないものへの、どうしようもない悔しさ。


「他にもいくらでもある。ドゥスカの小屋の子どもが、配給の列で蹴られた。『順番を守らなかった』って紙が言う。

 畑が『徴発』された。『補償済み』って紙が言う。

 教会の鐘が鳴れば『秩序は善だ』って説教が降ってくる。……その秩序の下で、誰が灰になる?」


 ルカは吐き捨てるように言った。


「どうせ焼けるなら、最初から全部ぶっ壊した方がいい」


 その言葉の危うさを、エリアスは分かっている。

 橋を落とした人間だからこそ、火がどこまで広がるかを知っている。


「……お前は、どこまで燃やす気だ」

「火を一番高いところでぶち上げる」


 ルカはそれだけ言い、固有名を飲み込んだ。

 その飲み込み方が、逆に「そこ」がどこかを示してしまう。帝都の、いちばん高い火。


「協力しろ、ローレン」

 ルカは言い切った。


「お前は監視対象だ。なのに、帝国の連中が勝手に口を滑らせる。ユリスみたいなのもそうだ。気づけば、お前に情報が集まってる。……お前のその人柄、ある意味で最悪の才能だ」


 エリアスの眉が動く。


「なぜそれを知っている」

「さあな。火遊びしてる奴らは、耳が多いんだ」


 ルカは笑って誤魔化した。

 その笑い方が、昔と同じで、余計に腹が立つ。


「今の暮らしがある」


 エリアスは言った。思ったより、すんなり出た。

 言い訳ではなく、事実として。


「ミラを巻き込めない」


 ルカはそれを見透かしたように、薄く笑った。


「聖イルミナ暦一〇三五年 九の月二十日。鐘が二つ鳴る頃。国境の旧監視塔に来い」


 エリアスの喉の奥がひりつく。


「そこがお前の――『橋の真ん中』だ」


 橋の真ん中。

 その言葉が、カルナ橋の記憶と重なる。爆薬の匂い、石の冷たさ、橋脚の奥に奉納された名。

 真ん中で折れば、どちらの旗も関係なく沈む。

 あの夜、エリアスはそれを選んだ。


 返事は出なかった。

 ルカはそれを責めない。最初から分かっていたように肩をすくめる。


「じゃあな、ローレン。月の出ぬ夜は、続きがある」


 ルカは屋根の反対側へ消えた。足音が瓦を叩き、闇に溶ける。

 エリアスは重い足取りで屋根を降りる。

 帰り道、村の静かな眠りが脳裏に浮かぶ。ミラの寝息、かまどの灰の匂い、黒パンの硬さ。


(どちらの火を守るつもりだ)


 自問だけが、胸の中で燻ったままだった。

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