第三章 灰の中の火種
第25話 手
(聖イルミナ暦一〇三六年 五の月)
五の月の朝は、冬の名残をもう持っていない。
窓の外の畑は薄い金を帯び、風が通るたび、穂先が小さく身をかがめた。収穫が近い匂いがする。
本来なら、この月は村にとって、いちばん「安心」に近い季節のはずだった。
――その日、村に届いたのは、麦の匂いではなく紙の匂いだった。
遠くから蹄の音がいくつも重なって聞こえ、次いで、布がはためく乾いた音。
村の中央へ向かう道に、濃紺の旗が一本、硬い影を落とす。
アルディア帝国の徴税隊だ。
「全戸、広場に集合! 家族ごとに列を作れ!」
帝国語の命令が、朝の空気を切り裂いた。
村人たちは戸口から顔を出し、互いに目を見交わす。いつものことだ。いつものことだからこそ、表情は余計に固くなる。
エリアスは玄関先で外套の紐を結びながら、ミラの方を見た。
ミラは、礼拝の日に着るフェルト地の上着を胸のところで押さえ、頷く。頷き方が、まだ少し硬い。
「……行きましょう、エリアスさん」
「そうだな」
彼女の声は小さい。
だが、以前よりも「言葉」になっている。彼女は、恐怖を飲み込みながらでも、口を開けることができるようになってきた。
◆
広場には簡易の机が一つ据えられていた。
机の向こうに、徴税官が座っている。濃紺の上衣、磨かれた靴、胸に小さな帝国紋章のバッジ。口ひげだけが妙に整いすぎて、都会の匂いがそこから滲む。
その左右に護衛の兵士が二人。肩から銃を下げ、視線だけを村人の首筋に落としている。
徴税官のすぐ隣――半歩後ろに、書記役の男が立っていた。
色の抜けた濃灰の上着に、簡素な革ベルト。
薄汚れた外套のフードを目深にかぶり、腰には小さなインク壺とペン差し。
胸元には帝国紋章入りの小さな布バッジが、ほんの少し曲がって縫いつけられている。
村人たちは一列に並ばされ、家族構成と収穫高を申告していく。
畑は何枚か。麦はどれほど見込めるか。家畜は。
短い問答が繰り返されるたび、村の暮らしが紙の上で「数字」になっていく。
(紙は、便利だ)
エリアスは列の中で、ぼんやりと思う。
戦場でもそうだった。兵の数も、弾薬も、橋の耐荷重も、紙に置かれた数字の形で先に決まっていた。
そして現実は、数字に合わせるように押し込まれていく。
列が進み、ドゥスカの小屋の番になると、徴税官の声がわずかに雑になる。
「姓は?」
褐色の肌の男が唇を動かす。帝国語がうまく出ない。
短い沈黙ののち、彼は絞り出すように言った。
「……ありません」
徴税官は鼻で笑い、書記に顎をしゃくる。
「印でいい。次」
書記の羽ペンが、ためらいなく黒い線を引いた。
名ではなく、ただの印。
それでも紙は、その男を「そこにいること」にする。紙の上に載ってしまえば、次は「奪う理由」が整う。
やがて、徴税官が帳簿を一枚めくり、口角をほんの少し上げた。
「……戦犯監督所の家」
その呼び方だけで、広場の空気が一段冷える。
ミラの肩が、びくりと跳ねた。
エリアスは一歩前へ出る。歩幅は崩さない。崩さないふりをする。
「戦犯名」
「エリアス・ローレン」
「監督役」
徴税官の視線がミラに刺さる。
「……ミラです。姓は、ありません」
「ドゥスカか」
短い侮蔑が混じる。
ミラは答えを飲み込み、ただ小さく頷いた。
徴税官は興味を失ったように帳簿へ目を落とし、紙を叩く。
「監督対象は別紙だ。おい、書記」
書記が板ばさみを抱えたまま一歩前へ出た。
フードの影が深く、顔の輪郭ははっきりしない。
ただ、近づいた瞬間――エリアスの鼻先に、微かに油と金属の匂いが混じった。
「形式確認をします」
帝国語。抑揚の少ない声。
その声の乾きが、耳の奥を引っかいた。
「居住者一名、監督役一名。日常的接触あり。監督対象、逃走兆候なし……」
書記の羽ペンが素早く走る。
エリアスは、その指先に刻まれた古い傷跡に目が止まった。細い白い線が、関節の横に幾つもある。
(工兵の手だ)
無意識に背筋が伸びる。
同時に、書記の男もまた、無意識に背筋を伸ばした。
軍隊の癖。命令を受ける前の、あの「一瞬の整列」。
だが、結びつかない。結びつけてはいけない。
徴税隊の書記など、戦後いくらでもいる。元兵士は腐るほどいる。
書記は、徴税官に聞こえるぎりぎりの声量で言う。
「戦犯一名、監督対象……」
そのまま紙束を持ち直すふりをして、ほんの一瞬だけエリアスへ顔を寄せた。
外套のフードの縁が、かすかに揺れる。
次の言葉は、帝国語ではなかった。
「――屋上で飲んだ夜を、覚えているか」
ベレシア語。
息のように低い囁き。
エリアスの心臓が、一拍だけ遅れて鳴った。
声と、その言い回しだけで、頭の奥に古い屋上の冷たい瓦の感触が蘇る。
書記はさらに短く続けた。
「月の出ぬ夜だ」
それだけ。
すぐに身を引き、帝国語で言い直す。
「――申告に偽りなし」
「次!」
徴税官の声が広場を元の流れへ戻した。
列が動き、書記は次の家へ移っていく。
エリアスは、その背中を追いそうになり――寸前で視線を落とした。
追えば、紙に「余計な線」が増える。
ここで増えた線は、村の誰かの冬の皿にまで届く。
ミラが、袖の端をそっと掴む。
「……エリアスさん?」
声が震えている。
彼女はさっきの囁きを聞いていない。聞こえたのは帝国語の「偽りなし」だけだ。
「大丈夫だ。戻ろう」
それだけ言って、エリアスは列から外れた。
ミラは遅れてついてくる。何か聞きたそうな目をして――だが、彼女は自分で口を閉じた。
その「閉じ方」すら、監督役のそれになりつつあるのが、痛い。
◆
昼過ぎ、徴税隊は村を去った。
馬車が土を跳ね、帝国旗が遠ざかる。村人たちは息をつくが、安心はしない。息をついた分だけ、次の算段が始まる。
家への帰り道、ミラが小さく言った。
「……さっきの書記の人、変でした」
「変?」
「紙ばかり見ているのに、ぶつからないように歩いていました。……それに、手が……」
「手?」
「固かったです。石みたいに」
石じゃない、と言い直したいのに言葉が見つからない、と顔に出ている。
エリアスはそれを見て、短く息を吐いた。
「兵隊の手だ」
ミラは目を見開いた。
「兵隊さん……?」
「そういう癖がある」
それ以上は言わない。言えない。
ミラは頷き、口の中に残った疑問を飲み込む。彼女は飲み込むのが上手くなってしまった。
家に戻ると、ミラはいつもの手順でかまどを起こし、鍋に水を張った。
日常を再生することで、紙の匂いを薄めようとしている。
エリアスは窓辺に立ち、空を見上げる。
八の月の空は澄んでいる。だが――その日は、月の白がない。
(……新月)
「月の出ぬ夜」。
士官学校時代、ごく限られた仲間内で使っていた、冗談めかした暗号の一部だ。
定期試験の後、立入禁止だった屋上に上がっては、学友たちと青き国家論を戦わせた。
暗闇の中でだけ本音を言い合うための、合図。
声の主が誰かなど、理屈の前に肌が知っていた。
だが、名前を口にしてしまえば――その瞬間から、この暮らしは紙に飲まれる。
夕方、ミラが食卓に黒パンと薄い煮込みを並べる。
いつもと同じ、静かな食事。
それが余計に胸を締めつけた。
夜更け。
ミラの寝息が一定になった頃、エリアスはそっと外套を手に取った。
床板のきしむ場所を避け、錠を外し、外へ出る。
空には、やはり月がない。
星だけが、冷たく、増えすぎるほどに瞬いている。
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