第22話 紙の上の慈悲

 その日の午後遅く。


 聖務局の会議室には、帝国の中枢を象徴する四つの札が並んでいた。

 皇帝の紋章が刻まれた卓上札。その左右に、貴族院・参謀本部・総主教庁の小さな札。

 座っているのは、それぞれの「代理人」だ。


 貴族院からは財政委員会の若い伯爵。

 参謀本部からは中年の参謀次長。

 総主教庁からは枢機卿ラドヴァン・メルク。

 そして少し奥に、第四皇女エルナと書記官セラ。

 二十一歳の皇女は他の男たちよりだいぶ若い。けれど胸元の聖火の紋章は、「敗戦国統治の顔」としてこの場に座らせるだけの重みを持っていた。


 机の中央には、エルナが青インクで書いた草案。その横に、赤と黒と紫のインク壺。


「まずは、殿下の御草案を拝見しましょう」


 ラドヴァンが穏やかな笑みで口火を切った。

 セラが紙束を配り、紙をめくる音だけが会議室に落ちる。


 最初にペンを取ったのは、貴族院の伯爵だった。


「……第二条」


 眉間に皺を寄せ、該当箇所を指で叩く。


『戦争に関わったすべての者について、その罪は調査されるが、戦犯として命を奪う刑罰は行わない』


 その一行の上に、赤い線が一本、すっと引かれた。


「このままでは、戦時特別裁判所の権限を全面否定することになります。残虐行為まで『処刑禁止』の一言で覆うわけにはいきません。遺族感情もありますし、戦時法規との整合性も取れない」


 エルナは思わず身を乗り出す。


「でも、だからこそ『誰も処刑しない』と──」

「殿下」


 ラドヴァンが柔らかく口を挟んだ。


「殿下のお志は、誰よりもよく伝わっております。ただ、法文としては少し形を変えた方が、より多くを救えるかと」


 彼は赤線の横に、紫がかったインクで新しい文言を書き加える。


『戦時特別裁判所の判決は、皇帝陛下および第四皇女殿下の裁可に服する』


「公開の場では、『誰も処刑しない』という殿下のお言葉が先に立つ。

 しかし法文上は、『裁く権利』を奪わずに、『赦す権利』を陛下と殿下のお手元に残すことができます」

「……処刑しない、と決めるのは、わたしたちの判断だと?」

「ええ。殿下が赦すからこそ、命が残る。紙の上では、その順番を整えるだけです」


 エルナは赤い行と新しい文言を見つめた。

 自分の「誰も処刑しない」が、「裁可に服する」という静かな言い回しの中に溶かされていく。


(でも……確かにこれなら、完全には失われていないのかもしれない)


 伯爵も赤い文に小さく頷いた。


「皇帝陛下と殿下の裁可が入るならば、遺族への説明も立つでしょう」


 参謀次長が黒いペンを握り直す。


「では、次は第三条と第四条ですが」


 彼は紙をめくり、青い文字を読み上げた。


『第三条 ベレシア人の住民には、教育と医療の機会を、帝国民と同等に与える』

『第四条 ドゥスカを含むベレシア自治州の住民には、飢えと疫病から守るため、地方教会と自治州当局の責任において、労働の対価として最低限の医療と休息の場を与える』


 参謀次長は三条目に縦線を引き、欄外に黒字で書き込む。


『※教育内容・期間・兵役義務との関係要検討』


「教育と医療は結構です。だが、『帝国民と同等』というのは言い過ぎですな。数字が必要だ。ドゥスカに関しては……労働と最低限の医療で十分でしょう。彼らが通える学校はありません」


 あまりにも当然のことを述べる調子だった。

 エルナは口をつぐむ。自分の草案にも「ドゥスカの教育」という発想はなかった。


(……飢えさせないだけでも、今よりずっとましだと思っていた)


 ラドヴァンがふたたび静かに割って入る。


「第三条と第四条も、少しだけ言い回しを整えましょうか」


 紫のインクが走った。


『第三条 ベレシア人の住民には、地方学校および教会を通じて、帝国民に準じる教育と医療の機会を与えるものとする』

『第四条 ドゥスカを含む自治州の住民には、地方教会および自治州当局の責任において、労働機会と、労働の維持に必要な医療と休息の場を与えるものとする』


「『帝国民と同等』という言葉は、反発を招きやすい。しかし『帝国民に準じる』とすれば柔らかくなります。また、ドゥスカについては『労働機会』と『教会』を並べることで、税収と労働力の双方に寄与すると説明できます」


 伯爵は小さく肩をすくめた。


「地方学校の予算は頭の痛いところですが……文言としては妥当でしょう」


 参謀次長も渋々と頷く。


「最低限の読み書きと帝国語を教えてくれれば、命令書も読める兵と監督役が増える。ドゥスカの方は、教会の説教で十分だ」


 誰も、「ドゥスカ自身がイルミナ書を読む」可能性に触れない。それは議論の外側にあることとされていた。


 エルナは、青と赤と黒と紫の混ざった紙を見つめた。ベレシア人には「準じる教育」。ドゥスカには「労働機会」と「説教」。そこに、「文字」や「本」という言葉は一つもない。


(……わたしの慈悲は、どこまで届いていて、どこから先は最初から見えていなかったんだろう)


 ラドヴァンは迷いを見透かしたように微笑む。


「殿下。理想は、器がなければ流れ出してしまいます」


 布で指先のインクを拭いながら続けた。


「わたしたちは今、殿下のお志をこぼさないための器を、紙の上に作っているのです。やがて冷めて固まれば、『誰も処刑しない』という核は、きっと残ります」


 エルナは救われるような気がした。


(それでも、核心だけは守らなきゃ)


 彼女は心の中で「誰も処刑しない」を拾い上げて握りしめる。

 セラは会議の端で黙って筆を走らせていた。

 青い原文、赤い修正、黒い備考、紫の「調整」。それらを全部まとめて清書するのが自分の仕事だ。


(『補助』と『操作』の境目なんて、紙の上では本当に薄い)


 ラドヴァンの微笑みを横目で見ながら、セラは心の中でだけ毒づいた。


 ◆


 それから数ヶ月。聖イルミナ暦一〇三四年 一の月。


 完成した「ベレシア統治基本方針」は皇帝の印を受け、四つの印と、片隅の「第四皇女エルナ・イルミナ・アウレリア」の署名を得た。

 セラは写しを前に読み返した。


『本布告は、皇帝陛下および第四皇女殿下の寛大なる御意志により、戦後処理における死刑の極力回避を旨としつつ、帝国の秩序と安全を保持することを目的とする』


 そこに、「ベレシアで誰も処刑しない」という単純な一文は、もはやない。


「……『極力』ね」


 セラは誰にも聞こえない声で呟いた。紙の上では、死刑は「極力」回避されるだろう。

 ラジオ用の原稿には、また別の形で言葉が並ぶ。


『エルナ皇女殿下の慈悲により、ベレシアでは戦犯の命が守られ、共に復興へ歩むことが決まりました』


 それも自分が書いた。

(紙が三枚あれば、同じ出来事を三通りに言い換えられる)


 帝都の家々では夜ごと「誰も処刑しない」という物語が流れるだろう。北境へ向かう列車の中でも、きっと誰かがその放送を聞く。そのとき手首には細い鎖、足元には冷たい鉄の床がある。


 ──紙の上の慈悲。


 エルナは今日も聖火の下で人々の前に立ち、約束を本気で信じ続けようとしている。


(殿下は、本気だ)


 だからこそ、その本気がどこまで紙の中で保たれているのか、誰かが見張っていなければならない。

 セラ・アルネットは自分の名前を署名欄には書かない。その代わり余白へ小さな印を残す。


 〈起草:聖務局記録課 S・A〉


 いつかこの紙が燃やされるとき、灰の中から誰かがその印を拾い上げるかもしれない。今日の「紙の上の慈悲」がどんな現実を生んだのかを、もう一度書き直してくれる誰かがいることを願って。


 セラは静かにペンを置いた。

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