第21話 四色の思惑
聖イルミナ暦一〇三三年 十の月。
大広場の歓声が、まだ窓の外で尾を引いていた。
聖火大聖堂のバルコニーから降りてきたばかりの第四皇女エルナは、控え室の椅子に腰を下ろした瞬間、ようやく肺の奥まで息を入れた。
「……ふう」
礼装の胸元が、わずかに上下する。
二十一歳になったばかりの喉は、何千人もの前で張り上げたせいで少し掠れていた。
「お疲れさまです、殿下」
水差しを持って近づいてきたのは、細身の若い女だった。
セラ・アルネット。
聖務局記録課所属の書記官。
今日の演説原稿を、エルナの言葉から紙に起こし、何度も推敲してきた相手だ。
エルナはグラスを受け取り、一口だけ喉を湿らせた。
窓の向こうから、「殿下万歳」という叫びがまだ時おり押し寄せてくる。
「……ちゃんと、聞こえてたかしら」
グラスの縁を指でなぞりながら、エルナはぽつりと呟いた。
「『ベレシアで誰も処刑しない』ってところ」
セラは迷わず頷く。
「はい。あの一節のあと、広場のざわめきが一度すっと引きました」
さっき、聖火を背にエルナが告げた言葉。
──アルディア帝国は、ベレシアで誰も処刑しない。
──帝国とベレシアは、共に復興する。
セラはその行を、自分の手で紙に書いた。
殿下の口にした言葉を、ほとんどそのままの形で。
(あの一行だけは、誰にも触らせなかった)
貴族院の政務官も、参謀本部の将軍も、総主教庁の書記長も、あれこれと文言に口を出した。
「復興の責任」「秩序ある統治」「皇帝陛下の慈悲」。
それでも、「誰も処刑しない」という一句だけは、エルナ自身が譲らなかった。
セラも、その頑なさに賭けることにした。
「……ありがとう、セラ」
エルナはグラスを机に戻し、視線を上げる。
「わたしの言葉を、ちゃんと紙にしてくれて。
きっと、これから何度も引用されるわ」
「紙は、火より長く残りますから」
セラは冗談めかして言い、すぐに真面目な顔に戻った。
「そのためにも、次を急がないといけません」
「次?」
「はい。さっきの演説は、あくまで『宣言』ですから」
セラは机の上に、薄い書類束を広げた。
「ベレシア統治の方針を、正式な文書にする必要があります。
戦犯の扱い、自治州の枠組み、ドゥスカ居住区の管理……殿下のお考えを、条文の形に」
エルナは一瞬だけ目を瞬いた。
バルコニーから見下ろした大広場の光景が、まだ瞼の裏に残っている。
紙吹雪。軍楽隊。旗の波。
そのすべての「あと始末」が、これから始まるのだと、ようやく実感が追いついてきた。
「……ええ。やりましょう」
エルナは背筋を伸ばし、机の方へ椅子を引き寄せた。
セラが差し出した筆記具は、いつもの黒ではなく、青いインクのペンだった。
「殿下がお書きになる部分は、この色で」
「“仮の案”という意味?」
「そうですね。これから、いろんな色が乗ってきますから」
セラは、自嘲気味に笑う。
貴族院の赤、参謀本部の黒、教会の濃い紫。
帝都の政治は、象徴としては皇帝が頂点にいる。
だが実務は、貴族院(立法と財政)、参謀本部(軍事)、ルーメニス教会総主教庁(宗教・道徳・教育)の三本柱で回っていた。
皇帝の印章は紙のいちばん上に押される。
そのすぐ下に、三つの印が横一列に並ぶ――それが帝国の「本当の手順」だと、セラは日々の文書から知っている。
(殿下は、その三つをまとめる「顔」として前に立っているに過ぎない。
けれど――いま、紙の最初の一行を書けるのは殿下だけ)
「まずは、殿下の言葉をそのまま器に流し込んでください。
あとで形を整えるのは、わたしたちの仕事です」
エルナは小さく頷き、真っ白な一枚目を見つめた。
──ベレシア統治基本方針(案)
セラの整った字で、すでに表題だけが記されている。
エルナは青いペンを握り、最初の一行を書き始めた。
『第一条 アルディア帝国は、ベレシア王国の領土と住民を、報復ではなく共生のために統治する』
書きながら、自分の声が紙に沈んでいくような感覚があった。
『第二条 戦争に関わったすべての者について、その罪は調査されるが、戦犯として命を奪う刑罰は行わない』
そこで一度息を吐き、三つ目の条文へ進む。
『第三条 ベレシア人の住民には、教育と医療の機会を、帝国民と同等に与える』
ペン先が、そこでほんの一瞬だけ迷った。
「……ドゥスカは?」と、喉の奥で小さな声が生まれる。
だが、文字にはならない。
ドゥスカが「学校に行く」という発想は、帝国でもベレシアでも、もともと世界の外側に置かれている。
彼らに必要なのは祈り方と働き方であって、文字ではない――そういう常識が、あまりにも厚く積もっていた。
二十一歳の皇女も、その常識の中で育っている。
エルナはペン先を持て余し、結局、別の一文をその下に継いだ。
『第四条 ドゥスカを含むベレシア自治州の住民には、飢えと疫病から守るため、地方教会と自治州当局の責任において、労働の対価として最低限の医療と休息の場を与える』
そこに「文字」も「本」も、「学校」という単語もないことに、彼女自身はまだ気づいていない。
飢えさせないこと。
病気のときに見捨てないこと。
それだけでも、今よりはずっとましになる――そう信じていた。
「……ここまでが、今のわたしの考えです」
エルナはペンを置き、肩の力を抜いた。
セラは斜め後ろから文字を追い、ゆっくりと息を吐く。
「いいと思います」
「本当に?」
「少なくとも、わたしがベレシア人なら、こう書いてくれた人を信じてみようと思います」
エルナは、少しだけ照れくさそうに笑った。
「でも、これだけではまだ『物語』です」
セラは机の端から別の紙束を取り上げる。
「数字と例外が入って初めて『法』になる。……それを、今から呼びに行きましょう」
十の月の光が、窓から差し込んでいた。
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