第23話 命を棄てる、名を守る

 聖イルミナ暦一〇三四年 二の月。


 その夜、カルナの街は、火を消した灯籠のように沈んでいた。遠くで何度か鳴った鐘の音が、風に千切れて届いては途切れていく。


 ローレン家本邸の居間には、暖炉の火が一つだけ灯っていた。薪を節約するよう命じてから、炎はいつもより小さい。壁の肖像画と古い地図の線だけが、橙色に浮かび上がっている。


 テーブルの上には一通の封書。厚手の羊皮紙に、帝国とベレシア双方の印章が押され、封はすでに切られている。何度も読み返されたせいで、端が少しよれていた。

 ローレン家長男の妻、ヒルデ・ローレンは指先でその端をそっと押さえた。

 蝋燭の光の下で、帝国語とベレシア語が混ざった文字の列が、また視界に立ち上がってくる。


 ──カルナ橋崩落に関する責任者の引き渡し。

 ──ローレン家次男、エリアス・ローレン。

 ──匿う場合は、一族および所領の処分をもって反逆罪と同視する。


 声に出して読む気にはなれない。読み上げてしまえば、この夜が境目になる気がした。


「……もう一度、読む必要はありませんわ、ヒルデ」


 暖炉の前から年長の女の声がした。エリアスの母であるローレン夫人が、硬く目を閉じたまま両手を膝の上で組みしめている。


「内容は、誰も忘れられないでしょうから」

「ええ……」


 ヒルデは封書を伏せた。文の一語一句はすでに暗記している。ベレシア語の「敗戦」も、帝国語の「安定化」という婉曲表現も、もう意味を変えようがなかった。


 居間には他に三人。当主ローレン卿は額を覆い、娘リーネと従士頭だった男が控えている。長男は自治区の公職へ出たまま戻らず、家の切り盛りは自然とヒルデと夫人の手に落ちていた。


「卿」


 ヒルデは当主に向き直った。


「帝国からの要求はこれで三度目です。今回は『ローレン家ごと処断する』と書かれております。……お返事を引き延ばせる猶予は、もうありません」


 ローレン卿の指が、額の上でわずかに動いた。深く息を吐き、顔を上げる。硬さは戻っていた――ただし向ける先は敵ではなく、自分の血族だ。


「エリアスを匿えば、ローレンの名は橋脚から引き剝がされる」

「そういうことだな」

「はい」


 帝国はすでにカルナ橋の崩落を「北境安定化戦役の転換点」として宣伝し始めている。政治の上では「誰か一人が罪を負わねばならない」。

 その「誰か」が橋の守りを担ってきたローレン家の者であれば、物語としては分かりやすい。


(わたしたちの栄誉が、そのままエリアスを縛る鎖になるなんて)


 ヒルデは心の中だけで噛みしめた。


「本当に……本当に、あの子のせいなのでしょうか」


 ローレン夫人が炎の方を見つめて問うた。


「橋が落ちたとき、エリアスは現場にいたのかもしれません。命令を出したのかもしれません。でも……あの子は、橋を守ることしか考えていない子でした。幼いころからずっと」


 ヒルデの脳裏に、嫁いできたばかりの頃の光景が浮かぶ。


 ◆


 夏の終わり、八の月の強い日差しが、川面に細かな光を跳ね返していた。

 ローレン卿は、まだ少年だったエリアスと長男を連れて、橋脚の一つの下に降りていった。ヒルデも新しい家族として、その場に立ち会った。


「この橋脚の奥で眠っているのが、ローレンの名だ」


 卿は石をそっと叩いた。


「代々の当主と、その長子の名を刻んだ石を埋める。橋が立っているかぎり名は水にさらされない。橋が折れるときは名もろとも沈む。それが我ら橋守の誓いだ」


 少年だったエリアスは、兄の名の隣の小さな窪みをじっと見つめた。


「次に刻むのは、俺の名ですか」

「お前が戦場で恥ずかしくない働きをして戻ってきたらな」


 その言葉に少年は小さく頷き、石の表面を指先でなぞった。


 ◆


(あの子は、本当に、自分の名をそこに刻むつもりでいた)


 今、その橋は半ば消し飛んでいる。黒い焼け跡をさらし、橋脚の一部はまだ立っているが、その奥で眠る名がどうなったかは誰にも見えない。


「エリアスが何を考えて、あの橋を――」


 夫人が言いかけたとき、ヒルデはそっと首を振った。


「お義母様。真相を知っている者は、今は前線か、帝都の帳簿の中にしかおりません。知っているふりをするのは、私たち自身を苦しめるだけです」


 ヒルデは封書に指を置いた。


「帝国は紙の上で戦争を終わらせようとしています。その紙の上で、エリアスは『橋を落とした戦犯』になりました。……紙に書かれた名は、川に流せません」

「ヒルデ」


 ローレン卿の声が低くなる。


「それは、あの子を見捨てろということか」


 ヒルデは一瞬だけ目を閉じた。


(見捨てる、のか。差し出す、のか。名を守るために、名を犠牲にするのか)


 目を開け、まっすぐ当主を見る。


「ローレンの名を守るために、ローレンの一人を差し出すのです」


 暖炉の火が、ぱち、と音を立てた。


「お義姉さま……」


 リーネが震える声で言う。


「そんなの、ひどい……。エリアス兄さまは、人を守ろうとして……」

「ひどいのは、戦争です」


 ヒルデは静かに言った。


「戦争の終わりに、いつもこういう紙が用意されることも、ひどい。でも、エリアスの名がそこに載らなければ、別の誰か――ローレン家全員か、カルナの別の家か――が同じ場所に書かれるだけ。これは、誰の名を紙に刻むか、という問題です」


 従士頭が低く問う。


「帝国は、誰かを『罪人』として書き立てることで、他の者を『赦された側』に回そうとしている……」


 ヒルデは頷いた。

 ローレン卿は目を閉じた。長い沈黙のあと、かすれた声で呟く。


「橋脚に埋めた石には、名前を足すことしか考えてこなかった。誰かの名を、そこから抜き取ることなど……考えたこともなかった」


 卿は立ち上がり、窓辺へ歩いた。カーテンの隙間から夜のカルナが覗く。遠くに、黒く折れたカルナ橋の影が月の光を受けて鈍く横たわっていた。


「エリアスは、自分の名を橋脚に刻むつもりで戦場に出た。その名ごと橋を落とし、今度は紙の上で『戦犯』と刻まれる」


 卿はぽつりと続けた。


「……あの子の名は、どこに残るんだろうな」


 ヒルデは答えなかった。答えられる者は、この部屋にはいない。


「卿」


 姿勢を正し、静かに言う。


「明朝までに、お返事を使者に託さねばなりません。どうか、ご決断を」


 ローレン卿はなおも橋を見つめ、やがて肩を落として振り返った。


「……ローレン家は、帝国の要求に従う」


 暖炉の火より低い音が空気を震わせた。夫人が息を呑み、リーネが口を覆い、従士頭が目を閉じて頭を垂れた。

 ヒルデは黙って頷き、封書を手に取る。返書を書くための紙とペンを用意しながら、一度だけ窓の向こうの橋を振り返った。


(あの子は、橋の橋脚に自分の名を刻んだのに……その名ごと、差し出すことになる)


 ペン先が紙に触れ、インクが白い面を染めていく。名と名のあいだに線が引かれ、物語が一つ上書きされる。


 カルナ橋の下で眠る石たちは、その音を聞くこともなく、冷たい水の中で静まり返っていた。


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