第19話 橋と敗戦

「カルナのローレン家の次男だよ」


 静かに告げる。


「父も、その父も、そのまた前も、橋と川の話で飯を食ってきた。

 石を積み、堤防を直し、橋脚に名を刻んできた一族だ」


 カイルの喉がごくりと鳴った。


「じゃあ……」

「そうだ」


 エリアスは、淡々と続けた。


「『橋を守れなかったからここにいる』というあんたの言い方も、間違いじゃない。

 あの橋を守ろうとして、守れなかった人間もいた」


 脳裏をよぎるのは、橋の上で散った部下たちの顔だ。

 命令書に従っただけの兵士。

 橋脚の爆薬に火を入れる役を引き受けた若い工兵。


「そして、『橋を落としたからここにいる』という俺の言い方も、間違いじゃない」


 シャベルの先で、足元の土を軽く突く。


「紙の上では、どちらも同じ一行にまとめられる」


 カイルは黙り込んだ。

 川面を渡ってきた風が、二人の間を抜けていく。

 遠くで、農夫の呼ぶ声と、子どもの笑い声がまじりあう。


「……子どもの頃な」


 沈黙を破ったのは、エリアスの方だった。


「父に連れられて、カルナ橋の下に降りたことがある」


 カイルが驚いたようにこちらを見る。


「橋脚の石に、家の男たちの名の頭文字が刻んであった。

 祖父の、父の、そのまた前の」


 冷たい石の感触。

 石の隙間に指を差し入れ、自分の頭文字を震える手で刻んだ日のこと。


「父が、こう言った」


 エリアスは、昔の声を真似るように、少し低く言葉を落とした。


『お前の名も、この橋の一部になる。だから軽くは使うな』


 カイルは息を呑む。


「もう一つ、こんなことも言っていた」


 エリアスは、視線を川の向こう岸へ向けた。


『橋は、二つの岸のために立て。

 一つの岸だけのために立てた橋は、いずれ片方の重みで折れる』


 風が、麦の芽をざわりと揺らした。


「……いい言葉だな」


 カイルが、ぽつりと言う。


「戦争中に聞きたかった」

「戦争中に口にすると、軍法会議行きだ」


 エリアスは、乾いた笑いを漏らした。


「『ベレシア王国のためだけに橋を守れ』と言われているときに、『二つの岸のために』などと言い出したらな」


 カイルも、苦笑する。


「俺たちは、『あの橋を守れなかった』って言い続けてきた。

 けど、守るべきものが何だったのか、ちゃんと考えたことはなかったかもしれない」


 彼は、堤防の向こうの畑を見下ろした。

 麦の芽。

 その向こうに、小さな家々と、煙突の煙。


「今は、川があふれないように土手を盛るだけで精一杯だ。

 この畑を守るために」


 エリアスは、その横顔をじっと見る。


 敗戦国の元歩兵。

 橋神話を教わって育ち、戦場で「橋を守れ」と命じられ、敗れ、家族を養うために今は畑を耕す男。


「それで十分じゃないか」


 ふと、言葉が口をついて出た。


「堤防を直すのも、橋を守るのと同じだ。

 水を渡らせすぎないように、道を守る仕事だ」


 カイルが、意外そうに笑う。


「戦犯に励まされるとは思わなかった」

「励ましてはいない」


 エリアスは、そっけなく言い捨てる。


「俺は、今さら橋を守ることはできん。

 せいぜい、堤防を少し高くして、君の畑が水に呑まれないようにするくらいだ」

「十分だよ」


 カイルは、真面目な顔に戻って頷いた。


「俺たちも、あんたも、ここで生きていくしかない。

 橋の上で死ねなかった兵隊の、『その後』ってやつだ」


 その言葉に、エリアスは返事をしなかった。

 ただ、心のどこかで、カルナ橋の橋脚に刻まれた名と、今ここで土に混ざる汗とが、細い糸でつながるのを感じていた。


 ◆


 その日の作業が終わるころには、堤防の崩れていた箇所に新しい土が盛られ、細かい石が埋め込まれていた。

 村の子どもたちが、その上を走ってはカイルに叱られる。


「おい、踏み固める前に壊すな」


 叱りながらも、声にはどこか笑いが混じっていた。

 エリアスはシャベルを片づけ、肩に上衣を引っかける。

 川風に晒された汗が、少し冷たくなっていた。


「ローレンさん」


 帰り際、カイルがふいに呼び止めた。


「俺は、あんたを許したわけじゃない」


 エリアスは振り返る。

 カイルは、堤防の上に立ったまま、まっすぐこちらを見ていた。


「橋を落としたかどうかも、本当のところは知らない。

 噂話と、さっき聞いた話だけだ」


 彼は、少しだけ言葉を探し、それから続けた。


「でも……橋を作った家の人間が、今この堤防を一緒に直してるのを見てると、

 あんまり単純な『裏切り者』って物語には、押し込められなくなる」


 エリアスの口元に、かすかな苦笑が浮かぶ。


「紙の物語は、単純な方が書きやすい」

「だろうな」


 カイルも、同じように笑った。


「俺も、徴兵のときに紙を一枚書かされた。

 『王と祖国と橋を守ることを誓います』ってな」


 その一文の重さを知るのに、彼は戦場まで行かねばならなかった。


「また明日も来るか?」

「堤防が終わるまで、だろう」

「それから先も、畑の方が手が足りなくなったら、声をかける」


 カイルは、不器用な提案をした。


「賃金は安いが、飯は出す」

「監督対象は、勝手に仕事を増やせない」


 エリアスは一度そう言いかけたが、ふと、家に残してきた少女の顔を思い浮かべた。

 読み書きの練習で紙を減らし、薪の節約で部屋を少し暗くし、それでも真剣な目で鉛筆を握るミラの姿。


「監督役と相談してみる」


 そう付け加えると、カイルは目を丸くした。


「監督役って、あのドゥスカの子か?」

「そうだ」


 エリアスは、特に説明を足さなかった。


「……そうか」


 カイルは、何か言いかけてやめた。


「じゃあ、また明日」


 彼は軽く手を上げ、堤防を下りていく。

 エリアスも、川を背に家の方へ歩き出した。

 夕方の光が、畑の若い緑と、土手の新しい土を斜めに照らしている。


   ◆


 家に戻ると、窓の内側に、かすかな灯りが見えた。

 扉を開けると、ミラが机に向かっていた。

 ストーブには小さな火がくべられており、その赤い光と、ランプの控えめな灯りが、紙の上を照らしている。


「おかえりなさい」


 ミラが顔を上げた。

 手には鉛筆。紙には、ぎこちない線がいくつも並んでいた。


「堤防の、お手伝いだったんですか?」

「ああ」


 エリアスは靴を脱ぎ、肩から上衣を下ろした。


「ローレン家の仕事の一部だ」

「橋、じゃなくて……」

「橋につながる土台だ」


 そう言って、机に歩み寄る。

 紙の上には、「はし」「した」「な」といった、見覚えのある文字が並んでいた。

 その端に、小さく「みら」と書かれた字がいくつもある。まだ形はおぼつかないが、それでも確かに名前のかたちをしていた。


「……読めるようになりました」


 ミラは、少し照れくさそうに言う。


「ここ、『橋の下には』って書いてあります。

 それで、こっちが――」

「『名を託した石が』だ」


 エリアスが続ける。


「はい」


 ミラは、うれしそうに頷いた。


「今日、ここまで一人で読めるようになって……

 紙が嘘を覚えても、わたしが本当を覚えていれば、って思いました」


 堤防の上で聞いたカイルの言葉と、どこか響き合うものがあった。


(あんまり単純な『裏切り者』って物語には、押し込められなくなる)


 紙の物語。

 橋の物語。

 戦犯と、ドゥスカの少女と、元歩兵と、村の畑。

 それぞれの中で、違う形の「橋」と「名」が、少しずつ書き換わり始めていた。


「続きは、明日やる」


 エリアスはそう言って、ストーブに薪を一本足した。


「今日は、堤防の方で橋の仕事をしてきたからな」

「……橋の仕事?」

「二つの岸のために土を盛るのも、橋守の仕事のうちだ」


 ミラは、その言葉の意味を全部は理解できなかった。

 それでも、「仕事」という言い方に、どこか誇りのようなものが混じっているのを感じ取る。


「じゃあ、わたしも頑張らないと」

「何をだ」

「紙の上の仕事を」


 ミラは、照れ隠しのように笑い、もう一度鉛筆を握った。

 橋と敗戦の話をした堤防の土と、名前を覚え始めた紙の上の文字と。


 国境の村の静かな夜に、その二つが細くつながり始めていた。

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