第二章 光の都と橋の国
第20話 統べる者
時は十年遡る。聖イルミナ暦一〇二五年 四の月。
帝都アイゼリアの朝はよく晴れ、高い窓から差し込む光が白い石畳を照らしていた。遠くには聖火大聖堂の尖塔が、淡い光輪をかぶったように霞んで見える。
けれど宮城の奥、宮廷礼拝室の静けさは別の季節のようだった。厚い扉を二つくぐった先は、帝都の喧騒から切り離された小さな祈りの箱だ。
その部屋に、少女が一人、背筋を伸ばして座っていた。
アルディア帝国第四皇女――エルナ・イルミナ・アウレリア。
十三歳の体には白い礼拝服が少し大きく、膝には分厚いイルミナ書が重たい。彼女は一行ずつ指でなぞり、口の中でそっと音を作っていた。
(「……光は、秩序あるところに宿る」)
読み間違えると侍女に笑われるのが嫌で、こっそり先に練習していた。
扉の前で足音が止まり、エルナは慌てて本を閉じて立ち上がった。
「おはようございます、ラドヴァンさま」
枢機卿ラドヴァン・メルクが入ってくる。白い祭服の赤い縁取りが、礼拝室の淡い光に浮いた。髪は白いが背筋は真っすぐで、目元にはいつも穏やかな笑みが宿っている。
「おや、殿下。今日も早いですね」
「はい……少しだけ、先に読んでいました」
ラドヴァンの視線が閉じられたイルミナ書に落ちる。
「四の月は成人の祝福の月。いい章を選びました」
彼は杖を祭壇の脇に立てかけ、向かいの椅子に腰を下ろし、尋ねる。
「さあ、今日はどこから始めましょうか」
エルナは本を抱え直し、少しだけ考える。そして迷ってから、胸の底に溜めていた問いを出した。
廊下では大人たちが、北境だ、南方だと小声で戦の噂をして、すぐに口をつぐむ。殿下の前で、と。――だからこそ聞きたい。
「……この世界で、いちばん大事なものはなんですか?」
幼い問いだと自分でも思い、頬が熱くなる。だがラドヴァンは笑わなかった。むしろ待っていたように目元の皺を深くする。
「いい質問ですね」
彼は立ち上がり、祭壇の灯火皿に火打ち石を当てた。ぱちり、と火花が散り、橙色の炎が静かに立ち上がる。
「殿下。これは何だと思われますか」
「……聖火、です」
「ええ。一なる光。この火は、熱を持ち、闇を払い、道を照らす。――けれど強すぎれば人を焼き、弱すぎれば誰も救えない」
エルナが身を乗り出すと、ラドヴァンは炎の上に手をかざした。
「大事なのは火そのものではなく、その火をどのような〈秩序〉の中に置くかです」
「秩序……」
さっき口の中で読んだ一節が、彼の声と重なる。
「善とは秩序の中にある火。悪とは秩序から外れた火です」
ラドヴァンは腰を戻し、言葉を簡潔に結ぶ。
「国には皇帝がいて、貴族がいて、兵がいて、民がいる。役目と場所が定まっている。それが秩序。もし誰かが勝手に火を持ち出し、好きなものだけを照らせば――明るい場所の影で、誰かが転ぶ」
「……危ない、と思います」
「その通り」
満足げに頷き、ラドヴァンは続けた。
「だから火の〈場所〉を決めねばならない。誰が守り、誰に分けるのか。――それを整えるのが、秩序であり」
そこで、彼は穏やかな笑みのまま、言葉を落とす。
「慈悲、なのです」
「……慈悲?」
「ええ。人を助けることです。ただし真の慈悲は、まず秩序を守ること。秩序が崩れれば百人が寒さに震える。秩序を保てば十人の寒さで済む。そのとき火をどこに置くかを決めるのが、大人の慈悲です」
十人と百人。エルナにはまだ遠い命題のようだった。それでも言葉は、不思議と胸に落ちる。
「殿下は、どう思われますか」
窓の外からかすかな軍楽隊の音が届いた。祝祭に向けた行進の練習だろう。
エルナは両手を組み、言葉を探す。
「……みんなが、安心して眠れるようにしたいです。兵隊さんも、町の人も。火が強すぎて誰かが焼けるのも、弱すぎて置き去りになるのも、嫌で……」
ラドヴァンは静かに頷いた。
「立派な望みです。ならば、火の側に立つ者が必要だ。火加減を見極め、燃えすぎれば絞り、消えそうなら支える――統治する者の務めです」
「わたくしも、その火の側に立てますか」
「立てますとも」
即答だった。
「殿下が火を守るということは、多くの民の〈秩序〉を守るということです」
胸の奥で、何かがぱちりと灯った。自分が火の側に立つ。人々が安心して眠れるように見守る。子ども心にも、それはとても「正しい」仕事に思えた。
「……その火は、遠くの国にも届きますか」
「遠くの国?」
「例えば、北の橋の国にも。……ベレシア」
地図帳で見た淡い色。
父や兄たちが「正しい方向へ導く対象」として話題に出す、辺境の国。
そこにも夜があり、寒さがあり、眠る子どもがいるのだろうか。
ラドヴァンは一瞬だけ目を細め、穏やかに答える。
「いつか、届くでしょう。殿下が成長され、皇帝陛下や貴族院や教会と共に秩序を保てば――光は隣人の家にも広がる。そのとき、ベレシアの子どもたちも安心して眠れる」
言葉の端には、薄い条件が滲んでいた。だがエルナの耳に残ったのは「光は届く」という部分だけだった。
「わたくし、頑張ります」
拳を握る。
「人が安心して眠れる火を、守れる大人になります」
ラドヴァンは微笑み、軽く頭を垂れた。
「聖火も、きっとお喜びでしょう」
祭壇の炎がちろりと揺れ、色ガラスを通った朝の光と混じり合い、エルナの髪を淡く縁取った。
ラドヴァンはイルミナ書を開く。
「では、続きを読みましょう。『火を預かる者の責任』――今日の殿下には、ぴったりの章です」
ページをめくる音が静かな礼拝室に落ちる。
エルナは椅子に座り直し、胸の奥の小さな火を両手で抱きしめるような気持ちで、文字を追い始めた。
その火が、のちにどれほど重い約束となって、遠い北境の誰かの運命を縛ることになるのか――この日、光の都の幼い皇女はまだ知らない。
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