第18話 家名という名の鎖
聖イルミナ暦一〇三六年 三の月。
十の月から、季節は静かに進んでいた。
雪解けの水で一度は膨れ上がったカルナ川も、いまは落ち着きを取り戻しつつある。川面には、まだ冷たさを残した光がゆらゆらと揺れていた。
村の周りの畑には、芽吹いたばかりの麦が、頼りない緑の筋を描いている。
風が吹くたびに、細い茎が揺れた。まだ「麦穂」と呼ぶには程遠いのに、暦の呼び名は先にその季節を指し示している。
堤防の上には、人影が点々と続いていた。
男たちがシャベルを手に、川べりの土を削り、崩れかけた土手に土と石を盛り直している。
冬のあいだに凍みて割れたところや、昨年の戦争で砲弾を受けた跡が、まだところどころに残っていた。
「ローレンさん、そっちはもう少し土を高めに盛ってくれ」
声をかけてきたのは、ノルド家の当主、カイル・ノルドだった。
礼拝堂で名前を呼ばれたとき、ミラの前の長椅子に座っていた男。
日焼けした頬と、腕まくりしたシャツの下の筋肉。
額には布を巻き、首には汗が光っている。
「ああ」
エリアスは、短く答えてシャベルを動かした。
左脇腹の古傷が、重い土をすくうたびに鈍く疼く。
それでも、軍の工兵として土嚢を積み上げてきた体は、こうした作業には慣れていた。
(橋のたもとの土の方が、まだ素直だったな)
ぼんやりと、遠い別の堤防の感触が指先に蘇る。
カルナ橋のたもと。戦時中、急造の防御陣地を築いたときのことだ。
「……助かるよ」
カイルが、隣で小さく笑った。
「村の男どもだけじゃ、なかなか終わらなくてな。帝国の監督対象にも手伝ってもらえると助かる」
「どうせ、どこかしらで汗はかかされる」
エリアスは土をならしながら答えた。
「ここでかくか、別の場所でかくかの違いだ」
堤防の上を吹き抜ける風が、汗を冷やしていく。
下流の方では、まだ子どもたちの笑い声が聞こえる。川辺で石を投げて遊ぶ声だ。
カイルはしばらく土を固める作業に集中していたが、やがて、ふと手を止めた。
「なあ」
呼びかける声が、少しだけ低くなる。
「ローレンって……カルナのローレン家か?」
エリアスのシャベルの動きが、わずかに止まった。
カイルは、その反応を見逃さない。
ただ、すぐには続きを言わず、足元の土をつま先で踏み固めた。
「礼拝で名前を聞いたときから、ずっと気になってた」
彼は、額の布をぐっと持ち上げ、汗を拭う。
「この川の橋を作った家の名だからな」
エリアスは、視線だけで彼を見た。
「昔、カルナ川に最初の石橋をかけた石工がいて、その子孫がローレン家だ、って」
カイルは、幼い頃に聞いたままの節回しで言う。
「ベレシアの学校じゃ、そう教わる。
『橋は、二つの岸をつなぐために立つ。橋を守る者は国を守る者だ』ってな」
それは、エリアスが少年の頃に、父に聞かされた言葉とほとんど同じだった。
(……父さん)
カルナ橋の下。
冷たい川霧の中で、父に肩を押され、橋脚の石に自分の名の頭文字を刻んだ日のことが脳裏をよぎる。
「子どもの頃、一度だけカルナ橋を見に行ったことがある」
カイルは、遠くを見る目をした。
「親父に連れられてな。まだ石畳も砲痕もなかった頃だ。
『見ろ、これが落ちない橋だ』って、得意そうに言ってた」
「落ちない橋、か」
エリアスは、土手の上から川面を見下ろした。
陽の光を受けてきらめく水面。
そのずっと上流、視界には入らない場所に、かつてカルナ橋があった。
「……そう教わったろうさ」
乾いた声で答える。
「俺も、そう教わった」
カイルが、ちらりとこちらを見た。
「やっぱり、そうか」
しばらく、シャベルの音だけが続いた。
二人の影が、伸びたり縮んだりしながら堤防の上を行き来する。
「兵隊に取られたのは、戦争の三年目だ」
カイルが、不意に口を開いた。
「俺は歩兵だった。
『川と橋の国の兵隊は、橋を守るためにいる』って、訓練で何度も言われた」
エリアスは、シャベルを地面に突き立てたまま、黙って耳を傾ける。
「でも――」
カイルは、掌についた泥をこすり落としながら、苦笑した。
「あの橋を守れなかったから、俺たちはここにいる」
その言い方には、自嘲と悔しさがまざっていた。
「守れなかったんじゃない」
エリアスの口の中で、別の言葉が小さく転がる。
(落としたんだ)
橋脚に仕掛けた火薬。
撤退命令。
渡り切れなかった兵士たちの叫び声。
自己弁護の言い分はいくらでも浮かんだ。
だが、口から出たのは別の言葉だった。
「……橋の上で死んだ奴らもいる」
カイルが、はっとしたように顔を上げる。
「そう、だな」
彼は、乾いた笑いをひとつ漏らした。
「カルナ橋が最後に見た景色を、俺は知らない。
俺がいたのは、もっと北側の渡河点だったから」
川の別の場所。
そこでも橋は落ち、堤防は破られ、多くの兵士と民が水と火に呑まれた。
「けど、噂話くらいは届く」
カイルは声を低める。
「『橋を焼いた司令官がいる』とか、『橋脚ごと吹き飛ばした狂った軍人がいる』とか。橋を守るべきローレンの名を持ちながら、橋を落とした裏切り者だ、ってな」
風が、堤防の上を吹き抜けた。
エリアスは、その風に皮膚をさらしながら、目を細める。
(紙の上の物語は、いつだって簡単だ)
報告書。
軍の通達。
判決文。
そこでは、「橋を落とす」という行為は一行で書き表される。
川の流れも、橋の重さも、そこにいた人の数も、ただの数字に押し込められる。
「……橋を焼いたことには、間違いない」
エリアスは、少しだけ言葉を選んだ。
「だが、狂っていたかどうかは、俺にはわからん」
カイルが眉をひそめる。
「ローレンさんは……」
彼は、ためらいがちに続けた。
「本当に、その橋と関係があるのか?」
エリアスは、シャベルの柄に両手を預け、空を見上げた。
八の月の空は、冬の灰色とは違っていた。
厚い雲の向こうにも、かすかな明るさがある。
「カルナのローレン家の次男だよ」
静かに告げる。
「父も、その父も、そのまた前も、橋と川の話で飯を食ってきた。
石を積み、堤防を直し、橋脚に名を刻んできた一族だ」
カイルの喉がごくりと鳴った。
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