第17話 名前を読むこと

「なら」


 報告書を机の上に戻し、指先で軽く押さえる。


「読めるようにすればいい」


 ミラは、ぱちりと瞬きをした。


「……え?」

「自分のことが書かれた紙を、自分で読めるようにする。それが嫌なら、いずれ自分で書くこともできるようにする」


 淡々とした口調だが、その中に、どこか投げやりでない固さがあった。


「ドゥスカに文字は要らん、というのが、この国境の物語だ。

 だが、ここには誰も見ていない時間がある」


 ストーブの火と、薄暗い天井。ジュナ婆の昔話を分け合った夜のことが、ふと頭をよぎる。


「君がそれを覚えたいと言うなら、覚えればいい」


 ミラは、しばらく言葉を失っていた。

 礼拝堂で、「光に背を向けた民」と言われた自分たち。報告書の紙の上で、「識字なし」と書かれた自分。

 そのどちらとも少し違う場所に、自分の足場が差し出された気がした。


「……本当に、いいんですか」

「何がだ」

「ドゥスカに字を教えたって、怒られませんか」

「怒られるのは、だいたい俺の方だ」


 エリアスは、わずかに肩をすくめた。


「それでも嫌なら、今から司祭を追いかけて『一行、書き足してください』と頼んでくるか?」

「い、いえ、それは……」


 グレゴルの前で、「字が読めます」と言う勇気は、とても持てそうになかった。

 エリアスは、そんな彼女の反応を見て、かすかに口元をゆるめた。


「今は、読み方だけ覚えろ。報告書から始めるのは味気ないから――」

「ちょっと、待っててください」


 ミラはそう言って小走りに部屋から出ると、大事そうに袋を抱えて戻ってきた。そして、袋の底から絵本を取り出し、机の上にそっと置いた。紙が擦れる音が、やけに大きい。


「……これしか、ありません」

「十分だ」


 エリアスは絵本を開き、最初の頁の絵を指でなぞった。橋の下に、小さな影が描かれている。目が光っているようにも見える。


「橋の下に精霊が住んでる話か」


 ミラは頷いた。


「……この精霊が、橋の下に人の『名前』を集めて、橋を守るんです。名前が多いほど、橋は丈夫になるって」


 エリアスは少し目を見開いた。ミラは断片的な文字の判読から、物語の筋を読み取っていたのだ。


「……これ、わたし、読めるでしょうか」

「読めるように、今からする」


 エリアスは椅子を机の反対側に引いた。ミラと向かい合う形になる。


「まずは、この字からだ」


 エリアスが指先で文字を叩く。


「『み』だ。これが『み』。……ミラの名前の最初だろ」


 ミラは恐る恐る真似をした。


「……み」

「そう。『ら』はこっちだ」

「……ら」


 書かれることのなかった、自分の名を示す文字。

 声に出してみると、その形が少しだけ身近になった気がした。


 ◆


 日が傾き、窓の外の雪が青くなり始める頃。

 机の上の紙には、鉛筆でなぞった線がいくつも増えていた。エリアスが書いた文字の上から、ミラの拙い字が重ねられている。


「『精霊は、橋の下から一度も出たことがありませんでした』」


 エリアスが指をなぞりながら読む。ミラはその行をたどり、たどたどしく読み上げた。


「せいれいは、橋のしたから……いちども、でたことが、ありませんでした」


 言い終えると、息が切れていることに気づく。読み上げるだけで、思っていた以上に力を使うのだと知った。


「……精霊は、橋が壊れたらどうするんでしょう」


 ぽつりと出た感想に、エリアスは少しだけ目を細めた。


「精霊?」

「はい。橋の下にずっといて、橋を守るのが仕事なのに、橋が壊れたら……」


 ミラは、自分の指で本の中の橋をなぞる。


「橋がなくなったら、精霊のお仕事もなくなってしまいます」


 その言い方に、どこか切実なものが混じっているのを、エリアスは聞き取った。


「別の場所に橋をかけさせるんだろう」


 少し考えてから、彼は答える。


「働き口を失うわけにはいかない」

「……精霊でも、生活があるんですね」


 思わず漏れた言葉に、エリアスの口元がわずかに緩んだ。


「橋守も、日々の飯は必要だ」

「精霊がご飯食べるんですか」

「物語による」


 短いやり取りのあいだに、机の上の空気が少しだけ柔らかくなった。


 監視する側とされる側。戦犯と監督役。

 初日にあったぎこちない距離は、まだ完全には消えていない。けれど、紙の上の一行一行を一緒に追っているときだけは、どこか「家庭教師」と「生徒」のような、別の関係が顔を出す。


「今日はここまでだ」


 エリアスが鉛筆を置く。


「無理に詰め込んでも、頭からこぼれる」

「はい……」


 ミラは、名残惜しさと安堵が混じった返事をした。


「明日からも、少しずつやる。報告書を全部読めるようになる頃には、橋の精霊の話くらい、自分で書き写せるようになっているだろう」

「本当に、そんなふうになれますか」

「紙が勝手に覚える文字より、君が覚える文字の方が多くなれば、そうなる」


 ミラは、その言葉の意味を完全には理解できなかった。それでも、「そうなる」と言い切られたことが、胸の奥に小さな灯りをともす。


「……じゃあ、頑張ります」


 そう言って、ミラは絵本を大事そうに両手で持ち上げた。ストーブの火が、小さくぱちりと鳴る。

 十の月の終わり。国境の小さな家の中で、紙の上の文字と声が、ようやくゆっくり結びつき始めていた。


 戦犯と少女の、静かな「勉強の時間」は、そうして一つ目の夜を終えた。机の上には、報告書とおとぎ話、その二つの紙が並んだまま、薄く灯りに照らされていた。

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