第16話 紙の記憶
聖イルミナ暦一〇三五年 十の月の末。
朝から、空は厚い雲に覆われていた。
雪はもうほとんど降らないが、溶けきれなかった氷が土の上でくすんだ光を返している。
定期訪問からグレゴル司祭が帰ってしまったあとの部屋には、静けさだけが残っていた。
さっきまで机についていた司祭は、いつものように穏やかな声で「今月は変わったことは?」とエリアスに尋ね、短く答えを聞きながらペンを走らせていた。
「逃走の兆候なし」「監督役健康状態概ね良好」――そんな言葉が、黒いインクで紙の上に増えていく。
書き上がった紙の一枚は、司祭が封筒に入れて持ち帰った。
もう一枚、薄い紙は、「控えだから」と言って机の上に置いていかれた。
「保管しておいてくれ。次の月の参考になる」
そう言って微笑んだグレゴルの姿が、まだ扉の辺りに残像のように浮かぶ。
今、その「控え」を前にしているのは、ミラだった。
薄茶色の机の上に置かれた紙を、ミラは両手で挟むようにして見下ろしている。
黒いインクの線が、細かく並んでいた。
唇だけをわずかに動かす。
(かん……とく、たい、しょう……せい、かつ……)
これくらいの大きな字は、見慣れてきた。
孤児院で黒板を盗み見て覚えた音と形が、ゆっくりと頭の中で繋がっていく。
けれど、欄の中に詰まった細かい文字になると、途端に意味がほどけてしまう。
黒い模様のようにしか見えない線を追いながら、ミラは唇を噛んだ。
「……ここに書いてあるの」
紙から目を離さないまま、思わず声が漏れる。
「本当に、わたしのことなんですか」
その問いかけに、机の向こう側にいたエリアスが動きを止めた。
椅子にもたれかかっていた彼は、ゆっくりと身を起こし、ミラの前へと歩み寄る。
報告が終わったあと、彼はしばらく窓の外を眺めていた。
カルナ川の方角、まだ雪に覆われた堤防の線が、かすかに見える。
「どういう意味だ」
短く問われて、ミラは少しだけ視線を上げた。
「グレゴルさまがさっき書いていたこと……わたしの名前とか、どこから来たとか、字が読めないとか……」
喉の奥が、わずかに熱くなる。
「ここに書いてあることが、全部ほんとうで、これだけが“ほんとうのわたし”なんでしょうか」
自分の言っていることが回りくどいとわかっていても、うまく整理できない。
ただ、「紙に書かれた自分」と「いまここで息をしている自分」のあいだに、目に見えない隙間があるような気がして、それが気持ち悪かった。
グレゴルの癖のある文字が、行儀よく並んでいる。
エリアスは、今度は逃げなかった。
「……『監督役』の欄を見るか」
「はい」
ミラは、両手を机から離し、ほんの少しだけ身を引いた。
インクの乾いた行を目で追い始める。
ほんの一瞬、読むのをためらう気配があった。
しかし、彼は淡々とした声で、紙に書かれている言葉をそのまま読み上げる。
「監督役……ミラ。姓なし。ドゥスカ出身。教会孤児院より派遣」
ミラの喉が、ごくりと鳴った。
続く行に、エリアスの指が軽く触れる。
「年齢、おおよそ十七。
健康状態、おおむね良好。
識字……なし。
監督対象との日常的接触……起床から就寝まで、生活の大部分を共にする」
そこまで読んで、エリアスは口を閉じた。
行の続きには、「特筆すべき問題行動なし」「帝国官憲への協力姿勢良好」などの定型文が続いているが、彼はあえて触れなかった。
沈黙が落ちる。
ミラは、自分の胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。
姓なし。
識字なし。
どちらも、知っていることだ。
驚くような秘密ではない。
それでも、紙の上で改めて突きつけられると、胸の奥がひどくざらついた。
「……嫌です」
思わず漏れた声は、自分が思っていたよりも大きかった。
ミラは慌てて言い直す。
「その、怒ってるわけじゃなくて……」
言葉がもつれる。
けれど、一度出てきた思いは、もう引っ込まなかった。
「自分のことなのに、読めないのは、嫌です」
エリアスが、わずかに目を細める。
「自分の名前がどう書かれてるかも、どんなふうに“なし”って書かれてるかも、わからないのは……」
ミラは唇を噛み、視線を落とした。
「わたしが何をしたか、何をしなかったかも、紙が勝手に覚えてしまうみたいで」
それは、礼拝堂で「名を持たぬ民」と呼ばれたときに感じた違和感と、どこか似ていた。
自分の知らないところで、自分の物語が決められていく感覚。
「紙が嘘を覚えてしまうのは、嫌です」
最後の一言は、かすれていたが、はっきりしていた。
エリアスは、手にしていた報告書から視線を外し、ミラを見た。
灰色の瞳に、ほんのわずかな戸惑いと、どこか見覚えのある痛みが浮かぶ。
(紙が、嘘を覚える、か)
彼がこれまで関わってきた命令書、戦況報告、北境の処置に関する書類たち。
それらのいくつかは、現場を知らない誰かの「物語」を優先したために、現実をねじ曲げていた。
カルナ橋の爆破命令書も、そうだった。
紙の上では「被害を最小限に抑えつつ敵の進撃を阻止」と書かれていたが、実際の橋の上では、火と悲鳴と、落ちていく影だけがあった。
その記憶をかすめながら、エリアスは小さく息を吐いた。
「なら」
報告書を机の上に戻し、指先で軽く押さえる。
「読めるようにすればいい」
ミラは、ぱちりと瞬きをした。
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