第9話 監督対象と“監視者”

「……っ!」


 エリアスは上半身を跳ね起こした。


 天井の梁が見える。

 カルナ橋の石ではなく、古い木と煤に染まった屋根裏。


 喉の奥が焼けつくように乾いていた。

 息は荒く、右手は無意識のうちに左脇腹の傷痕をつかんでいる。汗で寝間着が肌に張りつき、毛布は半ば床にずり落ちていた。


 遠くで風が鳴った。

 屋敷全体が、ひどく遠いところから戻ってきたように思えた。

 彼は、しばらくその場で呼吸を整えようとした。


 戦場から戻った後、何度もこうして目を覚ましてきた。

 いつもと違うのは、ここが自分の家でも兵舎でもなく、どこの国のものとも知れない国境の屋敷だということだけだ。

 静けさのなか、階下で何かが軋む音がした。


 足音。

 軽いが、慎重な歩み。

 きしむ階段を一段一段確かめるように上ってくる。

 エリアスは、寝台の上で体を起こしたまま、耳を澄ませた。


 数拍後、扉の向こうで小さな気配が止まる。


「……エリアスさん?」


 ためらいがちに呼びかける声。

 あのドゥスカの少女の声だった。


 エリアスは眉をひそめ、喉の渇きに引っかかるような声で答える。


「……起きている」


 ほんのわずかな沈黙の後、扉がきい、と音を立てて開いた。

 か細い油灯の光が、廊下から部屋の中に流れ込む。

 灯りを持ったミラが、敷居のところで足を止めていた。

 粗末な麻布の寝間着に、上から毛布を肩にかけている。

 髪はほどけて肩にかかり、オイルの匂いのする灯心の火が、その影を壁に揺らした。


 ミラは、部屋の中を一度見回し、それからエリアスの顔に視線を戻した。

 額に浮かんだ汗、乱れた寝具。

 彼女の目は、怯えと職務意識のあいだで小さく行き来している。


「さっき……」


 彼女は、言葉を探すように唇を動かした。


「声が、聞こえました。……叫んでいたので」


 エリアスは、短く息を吐いた。


「ただの夢だ」


 自分でも驚くほど、乾いた声だった。

 カルナ橋の名も、爆炎も、ここでは紙にも報告にも書かれない――そう思い込もうとするように、彼は言葉を続ける。


「夢は、記録する必要はないだろう」


 ミラは一瞬、意味を測りかねたように瞬きをした。

 それから、両手で油灯を持ち直すと、ゆっくりと部屋の中へ足を踏み入れる。


「……毛布、落ちてます」


 彼女は寝台の脇にかがみ、床にずり落ちた毛布を拾い上げた。

 エリアスの肩がわずかに強張る。

 触れられたわけでもないのに、誰かが自分の寝具を整えるという行為そのものが、久しく忘れていた感覚だった。


 ミラは、彼の反応を横目に見て、動きをすこし鈍らせた。

 それでも、教え込まれた所作をなぞるように、毛布を胸元までそっと引き上げる。


「……すみません」


 謝罪とも、報告ともつかない声。

 彼女は立ち上がると、自分の体を小さくまとめるようにして、決められた言い回しを口にした。


「監督対象の様子を、確認しました」


 まるで誰かに聞かせるための定型句のようだった。

 それはグレゴルか、駅で書類を読み上げていた軍人か、あるいはもっと遠くの誰かに向けて覚えさせられた言葉なのだろう。

 エリアスは、思わず口の端をわずかに歪めた。


「ご苦労なことだ」


 皮肉とも礼ともつかない返答。

 ミラはそのニュアンスを測りかねたように、また瞬きをした。

 油灯の火が、彼女の瞳に小さく映り込んでいる。

 その色は、教会の大聖堂で見た聖火の眩しさとは違う、油の足りない芯の火の色だった。


「……本当に、大丈夫ですか」


 今度の問いには、教え込まれた敬語ではない、かすかな素の調子が混じっていた。

 エリアスは答えず、代わりに寝台の上で目を閉じる。


「大丈夫だと言っておいたほうが、君の仕事が楽になるなら、そうしておこう」


 ミラは、しばらくその言葉の意味をかみ砕いているようだった。

 そして、ゆっくりと首を縦に振る。


「……わかりました」


 油灯を持ち直し、彼女は一歩、後ずさる。

 扉の方へ向き直る前に、もう一度だけ、寝台の上の男を振り返った。

 汗で濡れた前髪。

 目を閉じていても、眉間には浅い皺が刻まれている。

 手首や首筋には、縄や鎖で擦れた跡が薄く残っていた。


 この男が「戦犯」と呼ばれていること。

 この村が、彼を逃がせば罰を受けること。

 そして、自分自身もまた、この場所に自分の意思で来たわけではないこと。

 ミラは、胸の奥に生まれかけた何かを、言葉になる前に押し込めた。


 代わりに、さっきまでと同じ、少しぎこちない敬語を選ぶ。


「それでは……お休みなさい、エリアスさん」


 エリアスは、軽く顎を引いただけだった。

 扉が閉まり、油灯の光が細い線になって途切れる。

 階段を下りていく足音が遠ざかると、再び、屋敷には風の音だけが戻ってきた。

 闇に慣れた目が、薄ぼんやりと天井の梁を描き出す。


 エリアスは、横を向いた拍子に、机の上の紙束が視界の端に入るのを感じた。

 監督対象生活報告書。

 あの紙は、ミラの口から語られた自分の一ヶ月を、誰かの手で「物語」に変える。


(夢のことは、書かれない)


 そう思うと、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。

 けれど、カルナ橋の石と刻まれた無数の名は、今も意識の奥で崩れたままだ。

 目を閉じる。


 今度は数字を数えようとはしなかった。

 外では、国境の見えない線をなぞるように、風が雪を運んでいる。

 屋敷の中で、戦犯とドゥスカの少女は、それぞれの寝床で目を閉じながら、互いの「壊れ方」にまだ名前をつけられずにいた。


 静かな最初の夜は、そうして、じわりじわりと明け方へと滲んでいった。

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