第8話 消せない記憶

 聖イルミナ暦一〇三五年 十の月。


 辺境の夜は、あっけないほど早く終わる。

 夕餉の皿が片づけられ、屋敷の戸口に鍵がかかったあと、村じゅうの灯りが一つ、また一つと消えていくと、あとは風と梁の軋む音だけが残った。


 エリアスは、二階の寝台の上で目を閉じていた。

 固いマットレスと、わずかに湿り気を含んだ毛布。

 体を横たえたとたん、左脇腹の奥がじくりと疼いた。戦場で縫われた傷は、寒さと気圧の変化に素直なところがある。


(十まで数える。十まで数えたら、何も考えない)


 彼は今日、列車の中でそうしたように、心の中で数字を並べ始める。


 一、二、三――。

 数列の合間に、どうしても別の像が割り込んでくる。

 雪に沈んだ原野、灰色の駅、ドゥスカの少女。


 四、五、六――。

 グレゴルと名乗った神父。

 監督対象生活報告書。

 目の前の机の上には、今もあの紙束が置きっぱなしになっているはずだ。空欄だらけの欄と、自分の名だけが印刷された表紙。


 七、八――。

 そこまで数えたところで、意識の底がふっとずれた。


   ◆


 気づけば、彼は別の橋の上に立っていた。


 湿った木の匂い。

 石畳の隙間から吹き上がる、川風の冷たさ。


 〈聖イルミナ暦一〇三三年 七の月〉。

 カルナ橋。


 夜明け前の暗がりのなか、橋の両側から人と声が押し寄せている。

 帝国軍の砲声が遠くでうなり、橋脚の下では、川面に映る火の色が、波とともに揺れた。


「後退線を確保しろ!」

「民間人を先に通せと言っているだろう!」


 軍靴の音と怒鳴り声。泣き叫ぶ子どもの声。

 避難民の列と、後方から駆けてくる兵士の列が橋の上でねじれあい、命令は空気の中で千切れていく。

 橋脚の陰には、積み上げられた木箱。

 黄色い印のついた爆薬。

 湿布された導火線が、黒い蛇のように石と木のあいだを走っていた。


 誰かが彼の名を呼ぶ。


「ローレン大尉!」


 振り返ると、泥と煤にまみれた顔がいくつもこちらを見ている。

 工兵たち。歩兵たち。


 橋を守れという命令と、橋を落とせという現実が、その目の奥でぶつかっている。

 カルナ川の流れの向こう岸では、帝国軍の旗がじわじわと近づいてきていた。

 砲弾が一発、遠くの家並みに落ち、火柱が上がる。

 橋桁に刻まれた無数の名が、火の粉を浴びて浮かび上がったように見えた。


(時間がない)


 誰の声ともつかない、しかし自分の喉を震わせたような声が、頭の中で重なり合う。

 避難民の列の最後尾で、老婆が荷車を引きずっている。

 橋のたもとで、少年兵がこちらを振り返っている。


「――爆破用意!」


 その号令が空気を裂いた瞬間、夢の光景が白く反転した。

 導火線に火が移る前か、後か。

 橋が落ちたのか、まだ立っているのか。


 そこから先を思い出そうとしたとき、視界がぐしゃりと崩れた。

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