第10話 彼女の秘密
それから、十の月のあいだに、いくつかの朝と夜が過ぎた。
ミラは夜明け前に起きる。冷えた床板に裸足を下ろし、ひと呼吸だけ布団の上で丸くなってから、体を起こす。
井戸から水を汲み、かまどの灰を払い、薪を足す。まだ村じゅうが半分眠っている時間で、窓の外に見えるのは、白く曇った畑と、納屋の屋根にひっかかった細い月くらいのものだ。
湯が沸くころ、二階の床がわずかに軋む。
エリアスが目を覚ました合図だった。
ミラは薄いスープと黒パンを木の盆にのせる。皿を二つ並べる手つきは、孤児院の台所で覚えたものと同じだ。誰の皿か考えるひまもなく、名前のない子どもたちに名前のない木の器を配っていたときと。
違うのは、そのうち一つが「戦犯」のためのものだというだけだった。
「入ります」
決まり文句を口にし、ミラはエリアスの部屋の扉を軽く叩く。
「どうぞ」
低い返事を聞いてから、慎重に取っ手を押した。
部屋の中には、冷えた空気と、寝具にこもった汗のにおいが残っていた。エリアスはすでに寝台から起き上がり、窓のそばの椅子に腰かけている。薄い灰色の上衣の前を引き寄せ、左脇腹を無意識に押さえたまま、外の霜を眺めていた。
机の上には、「監督対象生活報告書」の紙束。その横に、小さな鉛筆と、使い古した消しゴムが転がっている。
「朝ごはんです」
ミラは盆を机の端に置き、なるべく視線を上げないまま一歩下がった。
「ああ」
返事は短いが、初日に比べればいくらか棘が取れている。
エリアスがスープに手を伸ばすのを見届けてから、ミラはくるりと踵を返そうとした。
そのとき、彼女の視線が机の紙束に刺さった。
『監督対象生活報告書』。
見慣れてきたその表紙の上を、視線が行をなぞるように動いた。
文字が読めないドゥスカが紙の上の「模様」を眺めるには、あまりに長い間。
(読めるのか)
しかし、エリアスは喉まで出かかった問いを、彼は引っ込めた。
戦場で、余計な問いかけは弾丸と同じくらい人を殺す。ここでも、そう変わらないかもしれない。
「皿が二つあるな」
代わりに、別の言葉を選ぶ。
「え?」
ミラが顔を上げると、エリアスは盆を顎で示した。
「お前の分は」
「あ、下で、あとで……」
説明になっていない。「あなたが先です」と言えば、それは「ドゥスカだから後でいい」と自分で口にするようで、喉の奥に言葉が張りついた。
エリアスは、彼女の表情を一瞬だけ眺め、それから視線を皿へ戻した。
「なら、好きなときに食べればいい」
それきり、彼はスープに口をつけた。ミラは慌てて頭を下げ、「失礼します」と部屋を出る。
扉が閉まる直前、エリアスはやはり左脇腹を短く押さえた。痛みから目をそらすその癖に、ミラはもう気づいている。
(監督役っていっても、ほんとうは何もしてない)
階段を下りながら、そんな考えが一瞬よぎる。夢のことも、傷のことも、報告書のことも、何一つ聞き出せていない。
ただ、スープを運び、毛布を直し、皿を洗っているだけだ。
その日の午後。
エリアスが一階の椅子で退屈そうに外を眺めるあいだ、ミラは自分の寝床を片づけていた。
薄い藁布団をめくると、布にくるまれた何かが挟まっている。
古い絵本だった。
表紙の角はすり切れ、布表紙の色も、元が何色だったのかわからなくなっている。それでも、黒いインクで描かれた線画はまだはっきりしていた。
ミラは周囲の気配を確かめ、誰もいないことを確認してから、そっとページを開く。
最初の頁には、小さな子どもが三人、川のほとりで石を積んでいる絵。次の頁をめくると、大きな石橋が現れる。欄干の石には、小さな文字がいくつも刻まれている。
「な、ま、え……」
誰もいないのをいいことに、ごく小さな声で音を拾う。
孤児院で、読み書きのできる帝国民の子どもたちが、先生と一緒に本を読むとき、ミラたちドゥスカは掃除をさせられていた。
だが、黒板に書かれた文字と、教室の前で読み上げられる音は、聞こうとしなくても耳に入る。
ほうきを動かすふりをしながら、ミラはその音と形を、頭の中で必死に合わせていった。
だから今、ところどころなら読める。
「は、し……を、まもる……いし」
ところどころ飛び、ところどころ間違えながら、それでも意味のかけらが浮かんでくる。読めないところは絵が補ってくれる。子どもたちが石に名前を書いて橋を守る話――そこまでくれば、あとは想像でつなげられた。
本当は、持ってはいけない本だ。
ドゥスカが字のあるものを隠し持つのは、よくないことだとわかっている。それでも、この絵本だけは、孤児院の棚からこっそり持ち出して、そのまま戻せなくなってしまった。
あの孤児院が別の場所に移されたとき、本も棚も消えた。だから、今さら返す場所もない。
ミラはページをそっと閉じ、布で包み直して、もう一度寝床の下に押し込んだ。
――トン、と。
戸口を叩く音が、鋭く家中に響いたのは、ちょうどそのときだった。
「開けろ、巡回だ!」
怒鳴り声と一緒に、乱暴なノックが扉の板を震わせる。
ミラは布団を投げ出すようにして立ち上がり、廊下へ飛び出した。反対側から、エリアスも現れる。階段を下りながら、いつものように左脇腹を押さえているが、歩みは普段より速い。
玄関の錠を外した瞬間、扉が内側にぐい、と押し開けられた。
帝国軍の制服を着た男が二人、雪のついたブーツのまま上がり込んでくる。一人はまだ若く、鼻の頭が赤い。もう一人は無精ひげを生やし、肩の階級章に薄い煤がこびりついていた。
「戦犯監督所の巡回だ」
ひげの男が、屋内をざっと見回す。ミラとエリアスの順に視線が移り、その目が細くなる。
「鎖も監視兵もなしとは、ずいぶんと気前のいいご政策だな」
わざとらしく「ご」とつけて、エルナ皇女の布告を皮肉る。
「命令ですから」
ミラは、喉がひりつくのを感じながら答えた。
ひげの男は、机の上の「監督対象生活報告書」に目をやる。
腰の袋から折りたたまれた紙片を取り出し、エリアスの胸元へ押しつけた。
「これが今日の命令書だ。最近、辺境で妙な紙が出回っている」
紙片には、ベレシア語で教会をからかうような落書きが書かれていた。
「こういうものだ。落書きの類だが、中には関与しているドゥスカもいると聞いた」
最後の言葉に、視線がちらりとミラをかすめる。
心臓がどくんと跳ねた。
「棚の中、床下、戦犯の私物も含めて、文字のあるものは全部確認する。監督役」
ひげの男はミラの方に向き直る。
「お前はここで見ていろ。抵抗するな」
若い方が台所の戸棚を開け、ひげの男は奥の部屋へ向かっていく。
ミラは廊下の真ん中に取り残され、喉が乾いていくのを感じていた。
(寝床の下……)
さっき閉じたばかりの絵本が、頭の中でやけに鮮やかになる。足を動かせばそこへ向かってしまいそうで、ぴたりと固まった。
「おい」
奥の部屋から、ひげの男の声が飛んできた。
ミラの膝が、がくりと震えた。
ベッドの下から引きずり出されたのは、布にくるまれた古い絵本だった。
ひげの兵士は布を乱暴に引きはがし、ページをぱらぱらとめくる。線画と大きな文字――子ども向けの本だとすぐにわかる。
「これは何だ」
低い声が、冷たい部屋をさらに締めつけた。
ミラの喉が、きゅっと鳴る。
「どこで手に入れた」
問いながら、兵士は絵本を片手で持ち、もう片方の手でミラの腕を掴んだ。痩せた腕が、指の間で簡単にきしむ。
「言え」
怒鳴り声ではない。だが、声の奥に、これまで何度も人を殴ってきた重さが潜んでいる。
ミラは口を開きかけ、言葉が絡まる。
「こ、こじ……その……」
「孤児院」という言葉が喉につかえる。正直に言えば、棚からこっそり持ち出したことまで話さなければならない。
黙っていれば、「帝国民から盗んだ」と決めつけられるかもしれない。
どちらにしても、拳が飛んでくる未来ばかりがはっきり見えた。
「ドゥスカが本を隠しておくとは、いい度胸だな」
兵士の指がミラの手首をさらに締める。もう片方の手が、ゆっくりと振り上がる気配がした。
その瞬間――。
「やめろ」
空気を断ち切るような一言が、部屋の隅から落ちてきた。
エリアスだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます