第15話 もうひとつの「火の話」②

「……そんな話、だったと思います」


 今のミラは、あの頃よりずっと大きくなっている。けれど、ストーブの赤い光の前で膝を抱えると、あの長屋の床と同じ冷たさが少しだけ蘇った。


「ジュナ婆は、字は読めませんでした。だからきっと、イルミナ書に書いてあることとは違うんだと思いますけど」


 ミラは、膝にあごをのせたまま、言葉を結ぶ。


「でも、『灰篇』のお話を聞くたびに、どっちの話が本当なんだろうって、ずっと考えてて……今日、グレゴル司祭さまが『背を向けた民』って言ったときも、少しだけ、それを思い出しました」


 短い沈黙が落ちた。

 ストーブの中で炭が崩れ、灰がふわりと舞う。その灰を透かして、まだ小さな赤い芯が光っている。

 エリアスは、しばらくそれをじっと見ていた。


「灰篇には、そんなふうには、書いていない」


 ようやく口を開いた彼の声は、礼拝堂で聞いた司祭の朗読よりも、ずっと低く、枯れていた。


「火から離れた民は、名を捨てて影に沈んだ――それが、あの本の言い分だ」


 昼間聞いた章の一節が、ミラの耳の奥で再びよみがえる。


「はい」

「だが、今の話は、火から離れたのではなく、火を隠した、か」


 エリアスは言葉を選ぶように、ゆっくりと言った。


「焼き尽くされないように、少し遠くへ運んだ、って感じだな」


 ミラは小さくうなずく。


「ジュナ婆は、『名を捨てた』とも言いませんでした。火のそばにいる人たちが勝手に付けた名前を嫌って、自分たちだけの名前を、影の中でそっと呼び合ったんだって」


 それは、ミラ自身が覚えている範囲で、少しだけ記憶を補った言い方だった。自分の名が帳面にきちんと刻まれない現実と、ジュナ婆の物語が、どこかで重なっていたから。

 エリアスは、腕を組み、膝に肘を置いた。赤い光が、彼の頬の古い傷を浮かび上がらせる。


「灰篇には載っていない話だな」


 ぽつりと落とされた一言は、責めるでも笑うでもなかった。

 ミラは、不安半分、安堵半分で、その横顔を盗み見る。


「怒りませんか。こういう話をしても……」

「なぜ怒る」


 エリアスは眉をひそめる。


「ジュナ婆とやらは、本を読まずに物語を作った。

 司祭たちは、本を読んで物語を作っている」


 そこで一度言葉を切り、かすかに口の端を上げた。


「どちらが正しいかは、俺には決められん」


 ミラは目を瞬く。


「でも、少なくとも――」


 エリアスは、ストーブの中の赤い芯を指先で示すように、顎を動かした。


「本を読まずに作った話の方が、俺には少しだけ、筋が通っているように聞こえる」


 カルナ橋で見た炎。爆薬の火花。焼け落ちた石と、そこに刻まれた名。彼の脳裏に、焼け跡の匂いが一瞬よぎる。

 ミラは、その表情の変化までは読み取れなかったが、言葉の重さだけは伝わった。


「……ジュナ婆は、『ここだけの話だよ』って、いつも言ってました」


 ミラは、そっと笑みを浮かべる。


「『偉い人に聞かれたら、灰ごと燃やされちまうからね』って」


 エリアスの喉の奥で、かすかな笑いが生まれた。


「賢い婆さんだ」


 それから、少しだけ真面目な声に戻る。


「ミラ」

「はい」

「さっき礼拝堂の帰り道で言っただろう。『いつか別の話も聞くといい』と」


 ミラはうなずく。


「ええ……」

「今の話は、その『別の話』の一つだ」


 エリアスは短くそう言い、ストーブに向かって、灰を靴先でそっと寄せた。


「紙には載っていないがな」


 ミラの胸の奥で、何かが温かく広がった。

 礼拝堂の高い天井の下で聞いた物語とは違う、もうひとつの火の話。それを、誰か――今は、この戦犯の男――に聞いてもらえたという事実が、灰の下で小さな火が息をし始めたような感覚を残した。


「……おばあちゃんが聞いたら、きっと喜びます」

「その婆さんは、まだ生きているのか」


 エリアスの問いに、ミラは小さく首を振る。


「たぶん、もう……。居住区が一度、焼かれたときに、どこかへ連れて行かれて」


 それ以上は、言葉にならなかった。

 エリアスは、それ以上追及しない。

 赤い火が、ゆっくりと小さくなっていく。灰の下に潜ろうとするその光を見つめながら、ミラはぽつりと呟いた。


「いつか……ジュナ婆の話も、紙に書いて残せたらいいのに」


 エリアスは目を細める。


「紙があって、インクがあって、誰かが字を書けるならな


 そこで一瞬、彼の視線がミラの顔をかすめる。


「少しずつ、そういうやり方を考えてもいいかもしれん」


 ミラには、その言葉の真意はうまく掴めなかった。けれど、「考えてもいい」という言い方が、完全な拒絶でないことだけはわかる。

 その夜、二人は灯りを点さないまま、それぞれの寝床へ向かった。

 ミラが布団に潜り込むころには、ストーブの中の火はほとんど灰に変わっていた。けれど、その灰のどこか深いところで、まだ細く赤いものが残っているような気がした。


(火を守ろうとした民……)


 昼間聞いた「背を向けた民」と、ジュナ婆の「火を守った灰の民」が、ミラの胸の中でゆっくりと重なり合い、形を変え始めていた。

 戦犯と少女の、奇妙に静かな日曜の夜は、そうして、灰の中に小さな火を残したまま、ようやく終わりを迎えた。

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