第14話 もうひとつの「火の話」①

 その夜、家の空気が、いつもより少しだけ重かった。

 礼拝堂で聞かされた「影の谷の民」の話が、まだ耳の奥にこびりついている。 火に背を向けた民。名を捨てた民。灰の民――。


 夕食をすませ、片づけを終えると、ミラはかまどの火を落とし、薪ストーブの扉を少しだけ開けた。中で赤くなった炭が、まだ細く息をしている。

 エリアスは机に向かい、椅子にもたれかかっていた。灯りの下で何かをするでもなく、ぼんやりと指先で机の節目をなぞっている。

 天井から吊るされた裸電球が、ふっと揺れた。しばらく、じりじりと不安定な光を放ったあと――ぱちん、と短い音がして、闇が落ちた。


「……あ」


 ミラは思わず声を漏らす。

 窓の外はもう真っ暗で、雪雲に隠れた月も見えない。頼りになるのは、ストーブの中の残り火だけだった。


「またか」


 暗闇の中で、エリアスの低い声がした。椅子がきしむ音。足が床を探る気配。


「電気が、ですか」

「辺境だからな」


 彼はどこか眠たげな調子で答えた。


「風が強いと、よく切れる」


 ミラは壁際を手探りして、慣れた動きでストーブのそばにしゃがみ込む。扉をほんの少しだけ開くと、赤い光が漏れて、部屋の輪郭が幽かに浮かび上がった。

 エリアスの横顔も、その光に照らされる。昼間礼拝堂で見たときと同じ、疲れた兵の顔。ただ、聖火の真鍮の輝きではなく、煤けた鉄の赤みに縁取られているのが違っていた。


「ランプに火をつけましょうか」


 ミラが問うと、エリアスは首を振った。


「油は帝国の倉庫の方が好きらしい」


 半分冗談めかした言い方だった。実際、灯油の配給はいつもぎりぎりで、無駄に灯りを点す余裕はない。


「このくらい、見えていれば十分だろう」


 そう言って、彼はストーブのそばまで歩み寄り、反対側の床に腰を下ろした。薄暗がりの中、焚き付け用の薪が積まれた箱が、ぼんやりと見える。

 火の赤い輪の中に、エリアスとミラが向かい合って座る形になった。

 しばらく、パチパチと木が鳴る音だけが、狭い部屋を満たした。


(灯りが少し弱くなったら――あの話を誰かに話してみてもいいかもしれない)


 ミラは両膝を抱え、赤い炭をじっと見つめる。灰の中で、まだ消えきらない火が、細く、呼吸をするように明滅している。

 ――ジュナ婆の、しゃがれた声が耳の奥でよみがえる。

 今が、“灯りが少し弱くなった”時だった。


 ミラは、膝に額を少しだけ預けるようにして、そっと口を開いた。


「さっきの……灰篇のお話と、少しだけ違う話を、昔聞いたことがあります」


 エリアスが視線を上げるのが、赤い気配でわかった。


「別の話か」

「はい。ドゥスカ居住区にいた頃、ジュナ婆っていう、おばあさんがいて……」


 自分でも、なぜ今この話をしようと思ったのか、はっきりとはわからなかった。

 ただ、昼間グレゴル司祭の声で聞いた「影の谷の民」と、礼拝堂の床の冷たさとが、どうしても胸の奥で引っかかっていた。

 それを解く糸口のように、ジュナ婆の声が思い出されたのだ。


「どんな話だ」


 エリアスの問いかけは短かった。急かすでも、疑うでもない。静かな誘いのように聞こえた。

 ミラは、赤い火を見つめたまま、ゆっくりと言葉を探す。


 その夜も、こんなふうに暗かった。

 居住区の長屋の天井には電灯があったが、配給の切れる日は、ほとんど飾りのようなものだった。廊下の隅の薪ストーブだけが、赤く光っていた。

 子どもたちがその周りに寄り集まり、ぎっしりと並んだ寝台の隙間に腰を下ろす。布団は薄く、壁の隙間からは冷たい風が入ってくる。それでも、火のそばだけは、少しだけましだった。


「ほら、もっと詰めな。火から離れると、凍えちまうよ」


 ジュナ婆が、節くれだった手で子どもたちの肩を押しやりながら、笑う。白髪は灰色の手拭いでまとめられ、皺だらけの頬は、いつも煤で黒ずんでいた。


「今日も『背を向けた民』って言われた?」


 婆は、火ばさみで炭をつつきながら、ひょいと幼き日のミラを見た。ミラはうなずく。


「うん。司祭さまが、『影に逃げた民の子孫だ』って」

「まったく、あの人たちは火の話が好きで好きでたまらないんだねぇ」


 ジュナ婆は鼻で笑い、炭の上に落ちた灰を、そっと寄せ集めた。


「でもさ、あたしが聞いた話は、少し違ったんだよ」


 子どもたちが、火の方へ身を乗り出す。ミラも、膝にかけた毛布を握りしめた。


「昔々、もっと大きな火があったんだとさ」


 ジュナ婆の声が、低く、どこか楽しそうに響く。


「山の上の小さな火なんかじゃない。空まで届くような、大きな火ね。みんな、そのそばに家を建てて、『これが一番あったかいんだ』って言ってた。火のそばにいる者が偉くて、遠いところにいる者は、いつも肩身を狭くしてた」


 ミラは、昼間礼拝で聞かされた「聖火」の話を思い出す。似ているところもあれば、違うところもあった。


「でもね、あるときその火が、強くなりすぎた」


 ジュナ婆は炭をひとつつつき、ぱち、と音を立てさせる。


「風が吹いて、火の粉が飛んで、森も畑も、街も、何もかも焼き始めたんだよ。

 『あたしたちをあっためてくれた火だ』って喜んでた人たちも、逃げ出さなきゃならなくなった」


 ミラの鼻の奥に、焦げた匂いがよみがえった気がした。居住区の外れにある焼け跡。瓦礫の下から、ときどき見つかる黒い骨。


「そのときね」


 ジュナ婆の指が、灰をつまむように動く。


「一握りの人たちが、火を全部捨てちまうのが怖くなった。

 『このままだと、火は全部風に食われてしまう』ってね。

 それで、まだ消えかけてない小さな火を、土の中に埋めたんだよ」

「埋めた……?」


 小さなミラが、そのときも同じように聞き返した。


「そうさ。土と灰をかぶせて、ゆっくり、ゆっくり燃えるようにしてね。そしたら、表からはもう火は見えない。煙も出ない。でも、地面のずっと下で、細く長く、火はまだ生きてる」


 ジュナ婆は、ストーブの前の床を指先で軽く叩いた。


「火のそばに残った人たちは、それを見て怒ったよ。

 『あいつらは火から逃げた』『背中を向けた』ってね。けれど、本当は――」


 そこで、婆はいたずらっぽく目を細め、子どもたちをぐるりと見回した。


「火が全部、暴れて消えちまわないように、守ってたんだよ

 土と灰でくるんで、いつか必要になったときに、また掘り出せるようにね」


 ミラは、自分の手の甲をじっと見つめた。冬の乾燥で少し白く粉を吹いた淡い褐色の肌を、ジュナ婆の、節くれだった指がとんとんと叩く。


「だからね、あんたの肌の色は、火を守った灰の色なんだよ」


 婆は、そう言って笑った。皺の間に、炭と同じ色の歯がちらりと覗いた。


「焼け残りでも、捨てられた灰でもない。小さな火を包んで、ちゃんと守った印だよ」


 その言葉は、幼いミラにとって、魔法のような響きを持っていた。孤児院の司祭が言う「背を向けた民」とは、まるで違う意味を持っていたからだ。


「……そんな話、だったと思います」


 今のミラは、あの頃よりずっと大きくなっている。けれど、ストーブの赤い光の前で膝を抱えると、あの長屋の床と同じ冷たさが少しだけ蘇った。

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