第7話 最初の夜

 屋敷の中に残されたのは、戦犯とドゥスカの少女だけだった。


「……えっと」


 ミラが、ようやく声を出した。両腕に抱えた紙束を抱き直し、主寝室と台所と、自分の部屋とを順に見渡す。


「司祭さまからは、ここでわたしが『従者』をするように、と言われました。掃除と、薪と、水と、ごはんと……それから、その……」


 言い淀み、言葉を探すように唇を噛む。


「帝国の人たちの前では、あなたを『ご主人さま』と呼ぶように、と」


 その言葉は、彼女にとっても喉に引っかかるらしかった。「戦犯」ではなく、「ご主人さま」。ドゥスカの少女が、ベレシアの元大尉をそう呼ぶことになっている。

 エリアスは、しばらく黙っていた。屋敷の空気の冷たさと、その言葉の居心地の悪さが、同じ温度で胸に沈んでいく。


「……村人の前では、好きにしろ」


 やがて、彼はそう答えた。


「お前が紙の上でどう書かれるかに、口出しするつもりはない。だが、二人しかいないところでまで『ご主人さま』と呼ばれるのは、性に合わない」


 ミラの目が、少しだけ光を帯びた。


「では……」

「エリアスでいい。あるいは、ローレンでも。お前の呼びやすい方で」


 それは、彼自身のための線引きでもあった。自分を「主人」と呼ばせるより、名前で呼ばせる方がまだ耐えられる。


「……わかりました、エリアスさん」


 ミラは、少しぎこちないが、はっきりとそう言った。名前に「さん」をつけるのは、彼女なりの折衷案なのだろう。教会で教え込まれた敬語と、自分の距離感の、ちょうど真ん中に置いた呼び方だ。


「まず、火をつけます。湯を……沸かします」


 ミラはそう告げて台所に向かう。薪を運び、火打石を打つ音が聞こえる。何度か失敗し、ようやく細い炎が灯るまでのぎこちなさが、音だけでも伝わってきた。


 エリアスは主寝室に戻り、机の上に置かれた書類の束を目に留めた。表紙には「監督対象生活報告書」と印刷されている。その下に、手で書き込まれた文字。


 戦犯名:エリアス・ローレン。


 そのすぐ下に、「監督役:」という欄の姓が空欄のまま残されていた。グレゴルが言ったとおりだった。ミラの名を書くべき場所。だが、ドゥスカの名は、紙の上に簡単には刻まれない。

 指先でその欄をなぞっていると、背後から気配がした。


「スープと、パンです」


 ミラが、湯気の立つ椀と、硬い黒パンを乗せた皿を持って立っていた。湯気の向こうで、彼女の視線が紙束に釘付けになっている。


「ここ……何て書いてあるんですか」


 彼女は思い切ったようにそう尋ねた。字の形は追えても、意味までは届かない者の問い。エリアスは、紙から目を離さずに答える。


「俺の名と、お前の名を書く場所だ。そして、ここから先、お前が『監督したことにする』俺の一日の行動」


 詳細を読み上げはしない。

どんな項目があり、どんな言葉で彼らを縛ろうとしているのか──それをミラに伝えるには、まだ早すぎる気がした。


「……そう、ですか」


 ミラは紙束をじっと見つめ、それから視線を逸らすように椀と皿を机に置いた。


「たくさんは、ないですけど」


 深い皿の中には、薄い塩味の汁と、ほぐした豆と、わずかな根菜の欠片。

 それでも、列車の床で数日過ごした身体には十分な温かさだった。

 エリアスは礼を言わずに、匙を手に取った。礼を言うことで、この奇妙な主従関係を自分の中で固めたくはなかった。


 スープを飲み終えると、疲労が一気に押し寄せてきた。カルナ橋の夜以来、まともに眠った記憶がない。列車の中の浅い眠りは、眠りと呼べるものではなかった。


「片づけは、私がします。……夜になったら、戸に鍵をかけます」


 ミラはそう言い、椀と皿を持って部屋を出ていった。ドアが閉まると、屋敷の中は再び静かになる。


 エリアスは寝台に横たわった。藁の軋む音。古い木枠の軋み。遠くで風が唸る。


(ここが、俺の新しい「持ち場」か)


 天井の木目をぼんやりと眺めながら、彼はゆっくりと息を吐いた。橋を守る代わりに、今度は一軒の壊れかけた屋敷と、ひとりのドゥスカの少女を含む、ささやかな暮らしを「監督」される側として過ごすことになる。


 まぶたが重くなり始める。カルナ橋の名が、意識の縁ににじみ出そうとするたび、エリアスは別のことを数えた。窓の数、部屋の数、廊下のきしむ場所──数字と配置で頭を満たし直す。

 やがて、思考と音がぼやけていく。


 こうして、国境の村の屋敷で、戦犯とドゥスカの少女の最初の夜が静かに始まった。

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