第6話 国境の村と「監督の家」

 雪を踏む音が、二つ分だけ続いていた。

 ミラは、振り返らずに先を歩いていた。肩甲骨までの黒髪をひとつに結び、薄い外套の裾を押さえながら、一定の歩幅で雪を踏みしめる。足取りは軽くはないが、迷いもない。


「ここから、どれくらいだ」


 沈黙が伸びた頃合いに、エリアス・ローレンが問いかけた。

 声は、あくまで事務的だった。自分の息が白く長く伸びていることを、ようやく意識するくらいには冷えている。


「……村まで、すぐです」


 やがて、道の先に家々の屋根が見え始めた。


 そこから丘を一つ越えると、風の向きが変わり、薪と獣脂の匂いが鼻をかすめた。村の入口には、粗末な木の柱が一本立っている。

 帝国語で雑に「ノール」と記された文字。その下には、ルーメニス教の聖火の印が彫り込まれていた。


 村の中心に向かって歩を進めるうちに、視線が増えてきた。

 別の家の戸口から、小さな子どもが顔を出した。幼い声で何かを叫ぶと、中から女が飛び出してきて、その肩を掴み、ミラたちに背を向けるようにして押し戻す。

 戸が閉まる直前、女の手が胸の前で聖火の印を切るのが見えた。


 ミラの歩く速度が、ほんのわずかに速くなった。それが周囲の視線から逃げようとしているのか、早く目的地に着こうとしているのか、エリアスには判断がつかなかった。


 村の小さな礼拝堂の前に差しかかった。石造りの壁に、色あせたステンドグラス。塔の先に掲げられた聖火の印が、曇った空の下で鈍く光っている。

 その扉が、きい、と軋んだ音を立てて開いた。中から、灰色の髪に白い祭服をまとった男が姿を現す。痩せてはいるが、背筋はまっすぐだ。


「グレゴル司祭さま」


 ミラが小さな声で名を呼ぶ。

 司祭は、彼女に短く頷きを返し、それからエリアスの方へ視線を移した。


「……ようこそ、ノールへ」


 帝国語の敬語は、型どおりだが、どこか乾いていた。グレゴルは胸の前で聖火の印を切り、教会で決められた文言をなぞるように続ける。


「戦いにおける罪を負いし者よ。ここは、贖いと監督の地です。皇女殿下と教会は、剣ではなく労働と祈りによる赦しの道を示されました。汝がここで静かに務めを果たし、再び名を取り戻す日が来ることを、聖火に祈りましょう」


 それは「祝福」とも「監視の宣言」とも取れる言葉だった。


 グレゴルは、それ以上何も言わなかった。代わりに、ミラの抱えている紙束に気づき、手を伸ばす。


「それが、監督報告の紙ですね。……見せなさい」


 ミラが差し出すと、グレゴルは表紙をぱらりとめくる。印刷された文字と空欄、そして手書きで記された名前。


「戦犯名、エリアス・ローレン……監督役、ミラ。」


 彼は小さく呟きながら、わかりきったことを言うと、紙をミラに返し、エリアスに向き直る。


「貴殿は今日付でノール境界監督所の『監督対象』とされました。村から出るときは、必ず誰かの目の届くところを通りなさい。そして、月の終わりには、この報告書を持って教会に来ること」

「逃げたら?」


 エリアスが淡々と訊ねると、グレゴルの表向き穏やかな表情が、少し曇った。


「紙の上では、逃亡した監督対象本人の責です。けれど実際には、最初に咎められるのは、その子と、この村でしょう」


 その言い方は、教会の人間というよりも、長く村を見てきた年寄りの現実感覚に近かった。


「……わかりました」


 エリアスは、それ以上の議論を避けるように、短く答えた。


「ついて来なさい。屋敷まで案内しよう」


 グレゴルは踵を返し、礼拝堂の横の細い道へと歩き出した。ミラがその後に続き、エリアスが最後に続く。三人分の足跡が、村の外れへと伸びていく。


 村外れの、小さな丘の肩に、それは建っていた。

 二階建ての石と木の屋敷。

 他の家々に比べて明らかに大きいが、栄光はとうに過ぎている。

 窓枠の一部は割れ、軒先の装飾は半ば崩れ落ちている。かつては庭だったらしい場所は、今や雪と雑草に飲み込まれ、柵もところどころ途切れていた。


「昔、この村で一番の『ご立派な方』が住んでいた屋敷です。屋敷と従者を与えたのは、ベレシアのローレン家次男である貴殿に対する、皇女殿下の御慈悲でしょう。」


 紙の上では、「敗戦地統治における模範的な住環境提供」として報告しやすい形でもある。

 戦犯には屋敷を、ドゥスカの少女には仕事と屋根を。当局の面目は立ち、誰も──少なくとも帝都の役人たちは──その中身を覗こうとはしない。


 玄関扉は重く、鍵は古びていた。

 グレゴルが懐から取り出した鍵束で錠前を回すと、軋む音とともに扉が開く。冷えた空気と、長く人が住んでいなかった家特有の埃っぽい匂いが、廊下に流れ出てきた。


「中へ」


 三人は玄関をくぐる。

 かつて磨かれていたであろう木の床は、今はところどころ軋み、壁紙は剝がれかけている。それでも、天井は高く、廊下は広い。

 グレゴルは一番手前の部屋の扉を開けた。広い部屋の中に、粗末な寝台と机、椅子が一つずつ置かれている。


「ここが主寝室だったようです。あなたの部屋です、ローレン」


これが、戦犯にも「人としての暮らし」を与えたということなのだろう。


「従者用の部屋は奥です」


 グレゴルは廊下を進み、台所に隣接した小さな部屋の扉を開けた。

 狭い空間に、簡素な寝台と小さな棚が一つ。窓は小さく、外の風を防ぐために布があてがわれている。


「ここがミラの部屋。台所と納戸も、基本的にあなたたち二人の管理下です」


 エリアスは部屋を一瞥する。彼が前線で与えられていた簡易天幕よりはましだが、屋敷全体からすると明らかに狭く低い場所だった。


「……ここで一緒に暮らすわけですか」


 ミラが、小さな声で言った。“監督役”としての責任と、“従者”としての役割が、同じ屋根の下に押し込まれている。


「村の前では、形が大事です。……ミラ」


 グレゴルは、不自然なほど冷静に言った。ここで長く暮らしてきた者の諦めの色だろうか。


「はい」

「村人や、監督所の役人の前では、この男を『ご主人さま』と呼びなさい。紙に書かれた役割どおり、主人と従者の形を見せておけば、余計な詮索は少なくなる」


 ミラは、わずかに顔をこわばらせた。


「……はい、司祭さま」


 それが嫌なのか、怖いのか、自分にとって何を意味するのか──そのどれとも言えない色が、短い返事の中に混じっていた。


「夜になったら、玄関の鍵をかけて、村の鐘が二つ鳴るまでには屋敷に戻ること。わからないことがあれば、昼のうちに教会に来なさい」


 そう一通り言い渡すと、グレゴルはエリアスの方を見た。


「ここで何をどう思うかは、あなたの自由です。ただ、紙の上で『問題なし』と書いて出せる暮らしをしてくれれば、それでいいでしょう」


 それは、司祭としてではなく、この村の「窓口」としての本音だった。


「鍵は、ミラに預けておきます。では……聖火が、あなた方を照らしますように」


 最後だけ教会らしい言葉を付け足し、グレゴルは踵を返した。玄関扉が再び重い音を立てて閉まり、足音が遠ざかる。

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