第5話 辺境の駅とドゥスカの少女②

「おい。……お前が、監督役のドゥスカだな」


 呼びかけられた少女が、わずかに肩を震わせた。

 一瞬周囲を見回す。自分以外に該当者がいないことを確認すると、ゆっくりと一歩前に出た。


「……はい」


 かすれた声だった。帝国語としては訛りが薄い。よく通る発音なのに、長く人前で声を出していなかった者特有の遠慮が、語尾にまとわりついている。


「名は」


 ユリスが手短に問う。


「ミラ、です」


 姓が続かないことに、少佐は何の驚きも示さなかった。

 名乗りが一つで終わるだけで、その身分が十分に説明される。

 ドゥスカは姓を持つことができず、その名は、教会の帳簿にも帝国の戸籍簿にも、最後の一行まで書かれない――「記録から外す」ことで存在を軽くする、そのやり方の典型だ。揺るぎないこの世界の理だった。


 ユリスは手元の書類をめくり、一枚を引き抜いた。そして、それを押し付けるようにミラへ差し出す。


「これが、お前の仕事だ。『監督対象生活報告書』。月に一度、この男の行動と様子を記録して、ノール境界監督所に提出する」


 紙が、ミラの手に渡る。その瞬間、少女の指先がほんの少しだけ強張ったのを、エリアスは見逃さなかった。

 ミラは紙を受け取ったものの、それをしばらく黙って見つめていた。


 その沈黙に、ユリスがわずかに喉を鳴らす。


「文字は……読めないな」

「はい」


 その一音は、言い訳でも反発でもなく――最初からそう決められている規則を、ただ受け入れる者の返事だった。


 ドゥスカにとって「読む」という行為は、能力の問題ではなく、身分の側の問題として扱われる。姓を持つことを許されず、名付けの儀にも列することを許されない者に、台帳や帳簿を読ませる理由がない。

 そのため、ドゥスカに教育を施す理由もない。名を呼ばれず、名を書かれない者に、文字は最初から渡されない。


 ユリスは軽く舌打ちをし、すぐに言い方を改める。


「……教会の誰かを通して口で伝えろ。聖職者か、村で字の読めるやつが記録する。やり方は追って指示が行く」

「はい」


 短く答える声は、震えてはいなかった。ただ、自分の足元から少し離れたところを見ている。エリアスは、そのやりとりを黙って見ていた。


 戦犯とドゥスカ。どちらも「帝国の秩序の外側」に押し出された存在だ。

 それでも、紙の上では、戦犯には名前が刻まれる。番号が振られる。管理される。

 ドゥスカには、姓すらない。姓を書く欄が、最初から空欄として用意されている。


 ユリスが、今度はエリアスの方へ向き直った。

 近くの兵士が鍵を取り出し、金属音とともに手錠のロックを外す。両手の重みが消える。手首の皮膚に食い込んでいた鉄の跡が赤く浮かび上がった。指を開閉すると、血が通い直すじんじんとした痛みが戻ってくる。


 自由――ではない。名札だけが、まだ冷たい。


「ここから先、お前は監督対象だ」


 ユリスは淡々と告げた。


「逃げようとしたり、妙な真似をすれば――お前の首が飛ぶ」


 そこで一拍、間を置く。そして、わざとらしくない、あくまで「手続きの注意事項」の口調で、続けた。


「……ついでに、その監督役も、おそらく一緒に飛ぶことになるだろうな」


 胸の内が、ひやりと沈む。エリアスは表情を変えなかったが、言葉の意味は刺さった。

 彼の逃亡は、彼だけの死では終わらない。

制度は、責任を「つなぐ」。鎖よりもよほど確実に。


「理解しました」


 エリアスが短く答えると、ユリスは満足そうでも不満そうでもない曖昧な顔で頷き、書類束を脇に挟み直した。


「寝床と飯は村で用意させてある。場所は──」


 少佐が駅舎の方へ顎で合図する。扉の脇に立っていた駅員らしき老人が、慌てて帽子を取り、頭を下げた。


「村外れの空き家をひとつ、戦犯用に回してあります、少佐どの。あのドゥスカの……」

「なら、案内はあの子で足りるな」


 ユリスはミラを指さした。


「こいつを連れていけ。そこが今日から『監督の家』だ。月末にこの駅まで出て来い。報告書が書けていようがいまいが、空紙でも出せばいい。印だけ押してやる」


 ミラは紙を胸に抱くように持ち直し、こくりと頷いた。


「……はい」


 声は小さい。だが、その足取りは、逃げるでも、すくむでもなく、ただ前へ進む準備をしている人間のそれだった。

 ユリスは最後にもう一度、エリアスを見た。同情でも憎悪でもなく、「現場を一つ片付けた」という疲れた実務家の諦観が、その視線には滲んでいる。


「ようこそ、北境自治区へ、ローレン」


 皮肉にも祝辞のような言葉を残して、少佐は列車へと引き返していった。別の戦犯たちを、別の村へ振り分けるために。

 汽笛が短く鳴る。鉄の箱が再び動き出し、鎖の音が遠ざかっていく。


 残されたのは、雪原と駅と、紙の匂いと、そして――目の前の少女だった。

 ミラは一度だけ、エリアスを見上げた。

大きな目。睫毛の影に隠れて、感情の輪郭が読めない。


 だが、その奥にあるのは敵意ではない。恐怖でもない。

 ――「ここに自分の意思で来たわけではない」という、同じ種類の冷えた事実。

 それを、彼女も彼も、否応なく共有してしまったように感じた。


「……行きます」


 ミラは、そう言って踵を返した。エリアスは一拍遅れて、その背中を追う。

 処刑場に向かう背中ではない。

 それでも、この国境で続く「別の戦争」の、最初の一歩であることだけは、なぜかはっきり分かった。

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