第一章 戦犯と少女の、国境での生活

第4話 辺境の駅とドゥスカの少女①

 やがて、金属が擦れ合う甲高い悲鳴とともに、列車は完全に停止した。車輪の下から、雪を押しつぶす鈍い音が伝わってくる。


 扉の外で怒鳴り声がした。


「停車! 戦犯車両、扉を開けろ!」


 ガチャン、と重い閂が外れる。

 次の瞬間、冷たい空気が「壁」のように車内へ流れ込んできた。煤と油の匂いが、いきなり雪と煙の匂いに塗り替えられる。肺の奥がきゅっと縮むほど、空気が鋭い。


「立て!」


 兵士の声に、戦犯たちが一斉に身を起こした。膝の関節が軋み、足首の鎖が持ち上がり、鈍い金属音が車輪の鼓動と重なる。


 エリアスも立ち上がる。体を伸ばした拍子に、左脇腹の奥が、固いものに拳で殴られたようにうずいた。カルナ橋で負った傷は、寒さを餌にして息を吹き返す。

 貨物車両の外は、白い平面だった。雪原。低い空。どこまでも続く灰色。


 人間の匂いが薄い土地だ。帝国の中心にあった喧騒も、ベレシアの町にあった湿った石の匂いも、ここにはない。あるのは、鉄道が引いた一本の線と、その線が終わる音だけ。


 ホームに降ろされると、足の裏が凍った木板を踏んだ。

 自分の身体が今、どこの国に属しているのか――そんなことを考える前に、目の前の駅名標が視界に入った。

 雪をかぶり、傾きかけた板切れに、帝国語の文字が残っている。


 ──ノール境界監督所。


 「境界」と「監督」。

 どちらの語にも、エリアスは既視感があった。地図と報告書の上で引かれる線。線の片側に「こちら側」を置き、もう片側へ「余りもの」を押し出す時に使われる言葉だ。


(ここが、俺の行き先か)


 ホームは短い。駅舎は小さく、窓は煤でくすんでいる。人影はまばらで、帝都の駅のように誰かが「迎え」に来ているわけでもない。


 それでも――人はいた。


 ホームの上には、粗末な防寒着を着た村人たちが十数人、遠巻きに立っていた。男も女もいる。吐く息は白く、誰もが肩をすぼめているのに、視線だけは妙に鋭い。


 その輪の端で、幼い子どもを抱いた女がひとり、子どもの頭を自分の胸に押しつけていた。子は腕の隙間から覗こうとして小さく身をよじるが、女はそれを許さず、抱き締める腕に力を込めて顔ごと隠す。

 見せたくない――いや、見てしまったあとで眠れなくなるのが怖いのだと、背中の固さが語っていた。


 彼らの目は冷え切っていて、敵意とも恐怖ともつかない。彼らにとって戦犯は、死体よりは少し厄介で、家畜よりは少し手続きが多い「荷」なのだろう。


 その群れの端に、小柄な影があった。


 黒髪。

 淡い褐色の肌。

 痩せた頬。

 年の頃は十八かそこら――そう言われればそう見えるが、栄養の足りない体つきと、肩をすぼめる癖のせいで、もっと幼く見える。

 太くまっすぐな髪は、簡単に後ろで束ねられ、雪に濡れた毛先が暗く沈んでいた。


 少女は、戦犯たちを見ていた。あからさまな嫌悪も、露骨な恐怖もない。

 ただ、距離を測る目。誰かの言葉を待つ目。――「連れてこられた者」が、別の連れてこられた者を見ているような、奇妙な静けさがそこにあった。


 帝国で、彼女のような者は一括りにこう呼ばれる。


 ドゥスカ。


 ルーメニス教会の神話で「聖火に背を向けた影と灰の民の末裔」とされ、姓を持つことも、名付けの儀に列することも許されない者たち。

 名を紙に刻む権利を握る側が、誰を「帝国民」として数え、誰を灰の側へ追いやるかを決める。その線引きの一番外側に、ドゥスカは置かれている。


(……ドゥスカを、こんな所で何に使う)


 エリアスがそう考えた時、ホームの中央に別の男が現れた。


 濃紺の軍用コート。肩章の階級章は少佐。年は三十代半ばだろうか。

 目元に薄い隈があり、夜行列車の付き添いに慣れているような疲れがある。

 それでも、軍靴の踏みしめ方には迷いがない。疲れていても、手続きは止まらない――そういう疲れ方だ。

 男は腕に抱えた書類束を片手で支え、もう片方の手で手袋を外し、表紙をめくった。紙が鳴る。この辺境で、一番よく通る音がそれだと思えた。


「アルディア帝国情報部付属、第七戦後処理局──ユリス・ハルト少佐だ」


 事務的な自己紹介のあと、ユリスは書類を一枚引き抜き、高らかに読み上げ始めた。


「戦犯番号一二九四。……戦犯番号一三〇二……」


 戦争の終わりに残った男たちが、紙の上では「列」になっていく。

 呼ばれた者が一歩進み、別の兵士が鎖の状態を確認し、誰かが印を押す。まるで、羊を数えて柵に入れる作業のようだった。


 そして、次。


「戦犯番号一三一一。エリアス・ローレン」


 エリアスは一歩進み出た。足首の鎖はここへ来る途中で外されている。今繋がれているのは両手首と腰の短い鎖だけだ。歩ける。走れない程度に。

 ユリスは書類から目を離し、エリアスの顔をじろりと見た。灰緑の瞳と、少佐の淡い青灰色の目が短く交差する。そこに憎悪はなかった。かといって同情もない。現場の目だ。


「歩けるか」

「ええ」


 声が掠れていたが、足取りは崩れなかった。ユリスは「そうか」とだけ呟き、懐から革製の腕輪を取り出した。

 それには薄い金属札には番号と、帝国語で刻まれた名前――Elias Loren。ユリスはそれを、エリアスの腕に括りつけた。冷たい重みが、手首の少し下にぶら下がる。


「ここに書かれたとおり、お前は今日から北境自治区ノール境界監督所所属の『監督対象』だ」


 ユリスは淡々と告げた。


「逃亡、暴行、武器の所持は禁止。監督役の指示に従う義務がある。月に一度、行動報告書が本部に上がる。その内容如何によっては、お前の扱いも変わる」


 監督対象。

 囚人でも、被告でもない。新しい言葉。紙の上で作られた、新しい箱。


 エリアスは、わずかに息を吐いた。処刑ではない。――その事実が、安堵より先に、奇妙な空白を連れてくる。

 死ぬ覚悟は、ある意味で簡単だった。だが「生かされる」覚悟は、別種の重さを持つ。


「……この辺境で死ぬか生きるかは、お前と、ここの連中との付き合い方次第だ」


 そう言って、ユリスはエリアスの背後――ホームの脇に控える小柄な影へと視線を向けた。


「おい。……お前が、監督役のドゥスカだな」


 呼びかけられた少女が、わずかに肩を震わせた。

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