第13話 「背を向けた民」
朗読のあと、短い説教が続いた。
「光から逃げることは、自由ではない」
グレゴルの言葉は、定められた文句の範囲から、大きく外れることはない。
「名を持たず、法に照らされぬまま歩むことは、倒れても誰にも知られぬということだ。だからこそ、私たちは影の民を哀れみ、正しい道へ導かなければならない」
「哀れみ」というところで、彼はドゥスカの子どもたちの方をちらりと見る。
だが、「導く」と口にするときには、視線は前のベレシア人たちへ戻っていた。
エリアスは、最後列の椅子から、そのやり取りをじっと眺めていた。
(導く、か)
カルナ橋の上で、自分が導こうとした兵士たちの顔が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
命令と現実のあいだで綱渡りをさせ、結局は橋ごと落とすことになった若い兵たちの姿が。
(誰かの物語の中では、俺も「火に背を向けた民」の一人かもしれんな)
そう思いながらも、口には出さない。
説教のあと、「名の確認の祈り」が行われた。
「では、今日ここに集う者の名が、光の前にあることを祈ろう」
グレゴルがそう言うと、前の列から順に、家族単位で立ち上がる。
「ノルド家。カイル・ノルド、妻リーナ、子マルタ」
「エッセン家。ハンス・エッセン、妻オルガ……」
司祭が名簿を見ながら読み上げるたびに、呼ばれた家族が胸の前で聖火の印を結ぶ。
エリアスの順番が来ると、グレゴルはわずかに間を置いてから、帳面を見た。
「……戦犯監督対象、エリアス・ローレン」
その名を口にするとき、堂内に微かなざわめきが走る。
エリアスは無言で立ち上がり、印だけを切った。
ベレシアの女が視線をそらし、男が咳払いをして空気をごまかす。
そして、ドゥスカの番だった。
「ドゥスカの子ら」
グレゴルは、名簿の最後の余白を見下ろし、そこでペン先が止まった跡に目を落とす。
「……主は、影の中にある顔なき子どもたちも、ご存じである」
それは、決まり文句に少しだけ彼自身の言葉を混ぜたような祈り方だった。
名前は呼ばれない。
姓も、家も、帳面には記されていない。
それでも、「子どもたち」とひとまとめにされることで、かろうじて祈りの輪の枠の中に置かれる。
ミラは、胸の前でそっと指を組んだ。
(名前がなくても、見ている、と……本当に?)
問いが喉まで上がるが、言葉にはならない。
床の冷たさが、膝からじわじわと這い上がってくる。
◆
礼拝が終わると、人々はいつものように礼拝堂の前で立ち話を始めた。
ベレシアの女たちが「明日の市は」「畑の雪解けが」と噂話をし、子どもたちはその周りを走り回る。
ドゥスカの子どもたちは、少し離れたところで固まっていた。
近づきすぎると、誰かに「邪魔だ」と手で払われるのを知っているからだ。
ミラは小さい子たちの靴紐を結び直しながら、ちらりと礼拝堂の扉を振り返った。
グレゴルがそこに立ち、出ていく村人一人ひとりに軽く会釈している。
ベレシアには、短い祝福の言葉。
ドゥスカの子どもたちには、目が合ったとき、ほんの小さな頷きだけ。
それでも、その頷きは、ミラにとっては十分な挨拶だった。
「ミラ」
背後から名を呼ばれ、振り向く。
エリアスが、少し離れたところに立っていた。
「……お一人で帰らないんですか?」
自分でも変な問いだと思いながら口にすると、エリアスは肩をすくめる。
「監督対象が勝手に消えると、また紙が増える」
「紙……」
「報告書だ」
短いやりとりに、ミラの口元に、ほんのかすかな笑みの影が浮かんだ。
一緒に歩き出す。
礼拝堂から家までの道は短い。
けれど、十の月の冷たい空気と、礼拝で聞いた話が、しばらく耳の奥に残っていた。
「さっきの、お話」
ミラが口を開いた。
「灰篇……『影の谷の民』」
「ああ」
エリアスは、足元の氷を避けながら答える。
「……あれは、わたしたちの話だって、子どもの頃から言われてきました」
ミラは、自分の手袋の端をぎゅっと握った。
「光に背を向けた民の子どもだから、名前もお家も、あまり持たせてもらえなくて当然だって」
それは、ただ事実をなぞっただけの説明だった。
文句でも、訴えでもない。
けれど、その「当然だって」という一言に、どこか薄い棘が混じっていることを、エリアスは聞き取った。
「君は、どう思う」
「え?」
「本当に、そう思っているのか」
問いかけは穏やかだった。
責めるでもなく、試すでもなく、ただ事実を確かめるような声。
ミラは少しだけ考え、首をかしげる。
「……よくわかりません」
正直に答えた。
「光に背を向けたって、わたしたちは生まれたときから、もう背を向けたあとだったから。気づいたときには、もう『灰の民の子』って呼ばれていて」
「選んだ」という感覚と、「最初からそうだった」という感覚が、うまく結びつかない。
「グレゴルさまは、いつもあの話を読むとき、少し悲しそうな顔をなさいます」
ミラはぽつりと付け加えた。
「だから、あのお話が全部、本当にそのままの意味なのかどうか……」
そこまで言って、自分で口をつぐむ。
教会の物語に疑いを挟むのは、あまり褒められたことではないと知っているからだ。
エリアスは、しばらく何も言わなかった。
ただ、白い息を一度吐き、それが風にちぎれていくのを眺める。
「谷を選んだのは、昔の誰かだろう」
やがて、彼は静かに言った。
「君じゃないし、今の子どもたちでもない」
ミラは、思わず彼を見上げた。
エリアスは、彼女の視線に気づき、すぐ前を向き直る。
「……俺は、ああいう話を聞くと、いつも『名前を刻んだ板』の方が気になる」
「板、ですか」
「火に照らされる名だ。山の上の、光のある方の話」
カルナ橋の橋脚に刻まれた名。
戦場で読み上げられた戦死者の名簿。
エリアスの頭の中では、それらの記憶が、灰篇の一節と奇妙に混ざり合っていた。
「いつか別の話も、聞くといい」
「別の……?」
「光に背を向けた民じゃなくて、火を守ろうとした民の話だ」
自分でも、なぜそんな言葉が口をついたのか、エリアスははっきりとはわからなかった。
ただ、押収された絵本の中の橋と、石に刻まれた名の絵が、ちらりと頭をかすめた。
ミラは、その言葉を胸の中でゆっくり転がした。
「そんなお話、あるんですか」
「さあな」
エリアスは、少しだけ口元をゆるめた。
「ないなら、作ればいい」
冗談とも、本気ともつかない。
だが、ミラの胸のどこかで、その一言が柔らかく灯をともす。
家が見えてくる。
窓越しに、かまどの上の小さな炎が、ちらりと揺れた。
礼拝堂の聖火とは比べものにならない、小さな火だ。
けれどミラには、その火の方が、今はずっと身近に思えた。
(火を守ろうとした民の話……)
昔、ドゥスカ居住区で聞いた、ジュナ婆のしゃがれた声が、ほんの一瞬だけ耳の奥でよみがえる。
それは、灰篇の「影の谷の民」とは、少し違う火と灰の物語だった。
今夜、灯りが少し弱くなったら――その話を誰かに話してみてもいいかもしれない。
そう思いながら、ミラは扉の鍵に手を伸ばした。
戦犯と少女の、奇妙に静かな日曜は、そこでようやく終わりに近づこうとしていた。
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