第12話 灯火の祈り

 聖イルミナ暦一〇三五年 十の月の終わり。


 日曜の朝、村の空気はいつもより少しだけ静かだった。

 屋根に残った雪はだいぶ少なくなったが、道端にはまだ灰色の氷がしぶとく居座っている。冷たい風が礼拝堂の鐘楼をかすめ、くぐもった鐘の音を一度だけ響かせた。


   ◆


「……行くのか」


 マントの紐を結ぶミラの後ろから、エリアスの声が落ちた。

 彼は椅子に腰かけたまま、窓の外を見ている。上衣の前はきちんと留められているが、襟元は少しきつそうだ。


「はい。日曜は、礼拝に出ないと」


 ミラは慌てて返事をし、戸口の靴に足を滑り込ませる。


「ドゥスカもか?」


 エリアスの問いに、ミラは一瞬だけ言葉に詰まった。


「……『光に背を向けた民こそ、光に導かれなければならない』そうですから」


 誰の口真似でもない、自分の耳に染み付いた言い回しだった。

 孤児院で、何度も聞かされた言葉。礼拝をさぼろうとすると、その一文を繰り返される。


「行かないと、あとでグレゴル司祭さまが心配なさいます」


 そう言い足すと、エリアスはかすかに片眉を上げた。


「司祭は、戦犯も心配するのか」

「……さあ」


 ミラは答えに困り、マントのフードを深くかぶる。


「礼拝堂まで、そんなに遠くありません。エリアスさんも、来られますか?」


 エリアスは椅子から立ち上がり、左脇腹を軽く押さえながら、靴を履いた。


「どうせ村中が集まるんだろう」


 窓に映る自分の姿をちらりと見て、肩をすくめる。


「見世物なら、まとめて済ませた方がいい」


 淡々とした口ぶりだが、そこに毒はあまりなかった。

 ミラは小さく会釈し、扉を開ける。冷えた空気が一気に流れ込み、二人の頬をなでていった。


   ◆


 礼拝堂は村の中央、カルナ川へ向かう道の分かれ目に建っている。

 石造りの小さな建物で、帝都の聖堂のような華やかさはない。けれど、尖塔の先にはきちんと聖火の紋章が掲げられ、その下の窓には薄い色ガラスが嵌め込まれていた。


 扉をくぐると、ふわりと油と古い木のにおいが鼻をつく。

 前方には祭壇と、聖火を模した小さなランプ。

 その周りを、簡素な木の長椅子がいくつか囲んでいる。


 ベレシア人の家族は、その椅子に座る。

 ドゥスカの子どもたちは、そのさらに後ろ、床に直接座らされるのが決まりだった。


「ミラ」


 名を呼ぶ声に振り向くと、同じドゥスカの少女が手を振った。

 くしゃくしゃの髪を紐で束ねたその子は、十五歳くらいだろうか。ミラよりも二つ三つは年下に見える。裸足のくるぶしが、冷たい石の床にじっと耐えていた。


「ここ、空いてる」

「うん」


 ミラは微笑み返し、その子――名前のないその少女の隣に腰を下ろした。

 前方の椅子の一番後ろ、壁際に近い場所に、エリアスの姿があった。

 戦犯用の特別席などはない。

 ただ、他の誰とも少し距離を空けた一角に、灰色の上衣を着た男が腰をおろしている。

 村人たちは、ちらちらとそちらを振り返り、ささやき合った。


「ほら、あれが」

「カルナの橋を……」


 祈りの前のざわめきの中に、戦争の地名がひそやかに混じる。

 エリアスはそれを、聞こえないふりでやり過ごしていた。

 視線は前方の祭壇と、その上のランプに向けられている。


   ◆


 グレゴル司祭が祭服をまとって現れると、ざわめきはすっと引いていった。

 年配の男で、背は高くない。

 眉の間には深い皺が刻まれているが、口元の線はどこか柔らかい。

 彼は、祭壇の前に立ち、銀色ではないがきちんと磨かれた灯火皿に、火打ち石で火を起こした。


「一なる光よ」


 短い祈りの言葉が、静かな堂内に落ちる。


「今日ここに集う者の名を、お忘れなきように」


 火が油を舐め、静かに揺れた。

 ベレシアの男たち、女たちが、胸の前で印を切る。

 ドゥスカの子どもたちは、それを真似していいのかどうか迷い、結局、膝の上で両手を握りしめたまま俯いた。

 ミラも、そうしてきた。

 孤児院で、一度だけ灯火の輪に紛れ込もうとしたことがある。

 そのとき、監督の女に腕を掴まれ、「影の子は光に触れる必要はない」と耳元でささやかれた。

 それ以来、火が灯されるたびに、どこか自分とは無関係な儀式のように感じている。


「今日は、イルミナ書・灰篇より」


 グレゴルの声で、ミラの思考が現実に引き戻された。


「第三章『影の谷の民』の一節を読む」


 その言葉に、ドゥスカの子どもたちがわずかに身じろぎする。

 この章の名前は、誰もが知っていた。

 自分たちのことを語る話だと、教え込まれてきたから。

 グレゴルは、聖書の布張りの表紙を開き、しばし静かに文字を目で追う。

 そして、朗々と読み上げ始めた。


「昔、世界がまだ若く、人々がそれぞれ暗い谷間で火を求めていたころ――」


 声は、いつも通りだった。

 だが、ミラには、その節回しのどこかに、小さなためらいのようなものが混じっているように聞こえた。


「一なる光・聖火は、山の頂きに立ち、こう呼びかけた。

 『誰でもよい。わたしのもとへ登る者は、その名を光に刻もう。

 お前たちの子も、その子も、そのまた子も、闇に迷うことはないだろう』」


 ベレシアの子どもたちの何人かが、口の動きだけ真似する。

 授業で覚えさせられた節だ。

 ミラも、掃除をしながら何度も耳にして、自然と覚えてしまった一節だった。


「人々は競うように山を登り始める。その中に、一つの群れがあった。

 彼らは谷底に広がる影を見渡し、こう言った。

 『ここには火はないが、影は深い。影こそが我らを隠し、我らを自由にする』」


 床に座るドゥスカの子どもたちの背中に、一斉に固さが走る。

 影。

 自由。

 その二つの言葉が、いつも彼らの上に重くのしかかってきた。


「彼らは山には登らず、自らの谷を『影の王国』と呼び、そこで暮らし始めた」


 グレゴルは淡々と読み続ける。


「やがて、山に登った民の上には聖火の光が満ち、法と名が刻まれた。

 しかし影の谷には、名を記す板も、法を照らす火もない。

 子は親の名を受け継がず、誰がいつ生まれ、いつ死んだのか、誰も知らない」


 ミラは、自分の手を見下ろした。

 姓を持たない手。

 戸籍にも、礼拝堂の名簿にも、ちゃんとした形で刻まれたことのない名。

 その現実が、物語の中の「どこか遠い誰か」の話と、ゆっくり重なっていく。


「聖火に背を向けた者たちは、名なき影として、永遠に谷をさまよう――」


 結びの節を唱えるとき、グレゴルの声がほんの少しだけ、わずかに低くなった。


「彼らを哀れみ、導こうとする者は多い。

 しかしまず、光に従う民の〈秩序〉を守ることこそ、真の慈悲である」


 「秩序」の一語のところだけ、彼がわずかに言い淀んだように、ミラには聞こえた。

 前方の長椅子では、ベレシアの男が満足げに頷き、子どもの肩に手を置く。

 後ろの床では、ドゥスカの子どもたちが、小さく身を縮めた。

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