第11話 二つの顔

「やめろ」


 空気を断ち切るような一言が、部屋の隅から落ちてきた。

 エリアスだった。


 彼は二人分の距離をひと息に詰め、兵士とミラのあいだに体を滑り込ませる。

左脇腹が一瞬きつく痛み、顔にそれがにじみかけたが、すぐに押し殺した。

 ひげの男は、思わず掴んでいた手を緩める。ミラの腕が、かろうじて解放された。


「何のつもりだ、戦犯」


 ひげの男は怒りを装って言うが、その目はほんの少しだけ警戒の色を帯びていた。

 エリアスは、彼の肩章に目を落とす。


「軍曹」


 階級を呼ぶ声は、妙に馴染んでいた。戦場で部下を呼びつけるときと同じ、よく通る声。

 ひげの男の背中が、その意志に反して少しだけ伸びる。


「戦犯を殴るか、監督役を殴るか、どちらでもいいが――」


 彼は一拍置き、まっすぐ相手の目を射抜く。


「ドゥスカだろうが戦犯だろうが、殴れば報告書が要るんだろう? 必要性の欄には、何と書くんだ」


 その「紙」の名で、空気が変わった。

ひげの男の目が、わずかに揺れる。

 戦場で嫌というほど見せつけられたものだ。誰が命じ、誰が従い、誰の名が紙に残るのか。

 エリアスの声には、それをよく知っている者の重さがあった。

 軍曹は思い出した。目の前の男は、鎖も階級章も失った囚人だ。だが、背筋に染みついた「大尉の声」は、体が先に反応してしまう類いのものだった。


「……偉そうに講釈を垂れる立場かよ、戦犯が」


 軍曹は悪態をつくが、拳はもう振り上げない。

 エリアスは、視線だけでミラと絵本のあいだを測り、短く息を吐いた。


「その本は、俺のだ」


 ミラが無言のまま顔を上げた。


「祖国の本が懐かしくてな」


 エリアスは、絵本に顎をしゃくってみせる。


「難民から盗んだ」


 ひげの男は鼻を鳴らす。


「戦犯が盗み自慢か」

「戦犯らしいだろう」


 エリアスは淡々と答える。


「このドゥスカは読み書きができない。少なくとも、文字を教えた覚えはない」


 ミラの方を、一瞬だけ、見るともなく見てから、視線を絵本へ戻す。


「文字の本を隠すなら、戦犯の方が似合う」


 軍曹は今度は大きく舌打ちすると、掴んでいたミラの手首から指を完全に離した。


「戦犯私物として報告書に書いておけ。」


 最後の一言は、どこか距離を取った調子だった。さっきまで振り下ろそうとしていた拳の重さに比べれば、ずいぶん軽い。

 若い兵士が腰の帳簿を開き、雑な字で何かを書きつける。

 ミラは、その帳簿の端をかすめ見る。

 「戦犯」「私物」「一冊」。ところどころ読める文字が、胸の奥で冷たく光る。


「ドゥスカの女」


 玄関へ向かう前に、軍曹はミラを振り返った。


「次からは、本を見つけたら黙って出せ。余計なことをしなければ、お前の名前まで紙に載ることはない」


 脅しとも忠告ともつかない言葉。

 ミラは、かすかに頷くことしかできなかった。

 兵士たちが出て行き、扉が乱暴に閉められる。外で雪を踏むブーツの音が、しだいに遠ざかっていった。

   

「……大丈夫ですか」


 静けさの中で、最初に声を出したのはミラだった。

 自分の声だという実感が、少し遅れて追いつく。

 エリアスは壁にもたれかかり、ゆっくりと息を吐いていた。左手で脇腹を押さえる。


「ああ」


 短い返事。それでも、額には冷や汗が滲んでいる。

 ミラは自分の手首を見下ろした。赤く指の跡が残っているのを見られたくなくて、思わず袖口を引き下ろす。


「その……ごめんなさい」


 何に対して謝ればいいのか、はっきりしない。絵本を隠していたことか。彼に嘘をつかせたことか。あるいは、さっき兵士の前で何も言えなかった自分自身か。

 エリアスは、さっき軍曹に向けていた鋭さを、もうどこかに置き忘れたような顔で、ふっと息を吐き直した。


「君が謝る話じゃない」

「でも――」

「悪いのは、さっきの軍曹と、あの本を見つけた運だ」


 淡々とした口ぶりだったが、責める矛先が自分ではないとわかって、ミラの肩から少しだけ力が抜けた。

 短い沈黙が落ちる。窓の外で、風が屋根瓦をなでる音がする。


「……どうして、嘘をついたんですか」


 自分でも驚くほど小さな声で、ミラは尋ねた。「難民から盗んだ」と言ったあの一言が、頭から離れなかった。

 エリアスは少しだけ目を伏せてから、肩をすくめる。


「戦犯が難民から本を盗んだ、という方が、皆納得しやすい」

「納得……?」

「ドゥスカが本を持っているよりはな」


 あっさりと言われて、ミラは言葉を失う。

 自分のためについた嘘だ、と真正面から言われるよりも、ずっと照れくさくて、どう返していいかわからなかった。


「それに」


 エリアスは、ミラの袖口に隠された手首へ、ちらりと視線を落とした。


「殴られたところで、俺はもう慣れているし……君が殴られたら、面倒だ」

「面倒……?」


 思わず聞き返すと、エリアスは少しだけ口元をゆるめた。


「巡回のたびに、司祭に同じ話をしないといけなくなる」

「司祭さまに?」

「月に一度、ここへ来るだろう。『変わったことは?』と聞かれる」


 その光景を思い浮かべて、ミラはこくりと頷く。


「そこで、『監督役が殴られました』なんて話をわざわざ出せば、書く紙が増える。紙が増えれば、偉い誰かの機嫌が悪くなる。――そういうのは、もう十分だ」


 最後の一言だけ、少しだけ低くなった。

 カルナ橋の報告書。失われた部下の名。どれもミラには見えないが、「もう十分だ」という言葉の重さだけは伝わる。


「だから、司祭には言わなくていい」


 エリアスは、ミラの目をまっすぐ見た。


「『巡回は来ましたけど、特に何もありませんでした』。それで終わりにしろ」


 それは命令というより、二人だけの小さな相談事のように聞こえた。

 ミラは胸の奥がくすぐったくなりながら、こくりと頷く。


「……わかりました」


 また少し沈黙が流れる。

 ミラは、ずっと気になっていたことを、思い切って口にした。


「その、本……」


 言葉を探しながら、袖口をぎゅっと握る。


「わたし、少しだけ、読めます。全部じゃないけど」


 自分の秘密を口にした瞬間、心臓が跳ねた。


「孤児院で、お掃除してるときに、先生の声と黒板の字を、勝手に覚えてしまって……」


 最後の方はほとんどささやきになる。

 怒られるかもしれない。「ドゥスカのくせに」と笑われるかもしれない。

 そう覚悟して顔を上げると、エリアスは少し驚いたように瞬きをして、それからほんのわずかに目を細めた。


「さっき、報告書の紙を見ていたな」


 ミラははっとして、思わず一歩下がった。


「み、見てません……!」

「見ていた」


 即座に否定されて、顔が熱くなる。

 エリアスは、そんな彼女の反応をみて、わずかに息を漏らした。


「心配するな。司祭には言わない」

「……ほんとうに?」

「君が本を持っていたことも、字を追えることも、俺が嘘をついたことも」


 指折り数えるように言ってから、肩をすくめる。


「どれも、紙に乗せるには惜しい話だ」


 それは、ひどくエリアスらしい褒め方のように聞こえた。

 ミラは、胸のあたりが少しだけ温かくなるのを感じる。


「この絵本……好きなんです」


 気づけば、そんな言葉が出ていた。


「全部は読めないけど、石に名前を書いて、橋を守るお話で……」

「だいたい、そんな話だったな」


 エリアスは視線を少し宙に泳がせる。

 ミラは、思わず彼を見つめた。


「知って……いるんですか?」

「当たり前だろう。ベレシアの昔話だ。そのうち……読んでやろう」


 ミラの胸が、どきんと鳴った。鼓動の後を追うように、言葉が出た。


「……本当ですか」


 エリアスは、少し考えるように目を伏せてから、短くうなずいた。


「ああ。暇なときにな」


 その「暇」がいつ来るかはわからない。けれど、さっきまで冷たく縮こまっていた胸の奥に、小さな灯りがともったような気がした。


「じゃあ、私は掃除をします」


 ミラがそう言うと、エリアスは「そうしろ」とだけ返す。声は淡々としているのに、その響きは、さっき軍曹をひるませた声とはまるで別物だった。

 彼は踵を返し、階段へ向かう。

 階段を上る背中は、やはり少し疲れていて、ところどころ痛みをかばうようなぎこちなさもある。けれどミラには、その背中がさっきよりも、ほんの少しだけ近く感じられた。


 さっきの「報告書が要るんだろう」と叩きつけた声は、もう残っていない。代わりに、秘密をひとつ共有した人間同士の、ぎこちない沈黙だけが残っていた。

 それが、このあと始まる奇妙な「勉強の時間」の、まだ名前もない最初のきっかけになっていく。

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