第24話 二つの岸のために

 聖イルミナ暦一〇三五年 八の月。


 カルナ川を渡る風は、まだどこか冷たかったが、両岸の丘は黄金色に染まり始めていた。

 刈り取り前の麦畑が、波のように揺れている。


 カルナの街は、戦火の痕を抱えたまま、表面だけを急いで繕ったような姿になっていた。

 崩れた城壁の一部には新しい灰色の石がはめ込まれ、通りの角ごとに帝国旗が掲げられている。家々の窓辺には小さなベレシアの刺繍布が、あえて見えにくい位置に掛けられていた。

 その街を見下ろす高台の道を、一台の馬車がゆっくりと進んでいた。


「……思ったより、近いのね」


 窓から身を乗り出すようにして外を眺めていたエルナが、思わず呟いた。

 視線の先に、カルナ橋があった。カルナ川をまたぐ巨大な石橋。

 戦前の絵葉書に描かれていた優美なアーチは、今もその輪郭を辛うじて保っている。

 だが中央付近は、別の色の石と鉄骨でつぎはぎされていた。大爆発で崩れた部分を、帝国工兵が急ごしらえの鉄の枠とコンクリートでつなぎ直したのだ。

 遠目にも、その部分だけが痛々しいほど新しい。古い白い石と、新しい灰色の骨組み。

 二つの時代が、ひとつの橋の上で無理やり握手させられているようだった。


 馬車の向かい側に座るセラ・アルネットが、手帳を閉じる。


「殿下。まもなく橋の袂です」


 エルナは窓から身を引き、軽く頷く。二十二歳になったばかりの皇女の顔には、まだあどけなさの残る輪郭と、大人としての責任を意識し始めた硬さが同居していた。

 ベレシアが降伏し、「誰も処刑しない」という宣言を出してから一年。今日は、その「紙の上」の約束が、本当にこの土地に届いているかを自分の目で確かめるための視察――と、名目では説明されている。


(けれど、本当は……)


 エルナは自分の両手を見下ろす。戦争中、一度も握ったことのない銃の代わりに、彼女が握ってきたのはペンと聖火の燭台だけだった。

 その手でつけた署名が、ベレシアの地面にどんな影を落としているのか。それを知るための旅でもあった。


 ◆


 馬車が橋の袂へ向かってゆるやかな坂を下る途中、カルナ川とは反対側の斜面に、低い屋根がいくつも折り重なる一角が見えた。黒ずんだ布と波板でつぎはぎされた小屋。簡素な木柵と鉄線。


「……あちらは?」


 エルナが窓越しに身を乗り出すと、同乗していた帝国軍の地方司令官が、すぐに姿勢を正した。


「復興事業の労務者宿営区であります、殿下」

「戦災で家を失った者や、労務に従事する者たちを、一時的に集めております。殿下のご方針のおかげで、皆、屋根と食事には事欠かぬ暮らしを」


 そう言うあいだにも、褐色の肌の人影が列を作っているのが見えた。大きな鍋の前で器を差し出す女たちと子どもたち。列の外へ押し戻される少年。

 エルナは口を開きかけた。


「近くで様子を──」

「恐れながら、殿下」

「復興の妨げになりかねぬ者も混じっておりますゆえ、本日の公式行程からは外しております。カルナ橋と市街の視察だけでも、殿下のお時間を大きく頂戴しておりますので」


 言葉は丁寧だが、その視線は「これ以上は踏み込まないでほしい」と静かに告げている。

 セラは窓の外を一瞥し、手帳の片隅に小さな一行だけ書き留めた。


 〈斜面下に仮設小屋群。鉄線柵。労務者列。〉


 馬車は、その一角を真正面から通ることなく、帝国旗と花で飾られた広い通りへと滑り込んでいった。


 ◆


 カルナ橋の袂には、小さな出迎えの列ができていた。帝国軍の地方司令官、ルーメニス教会カルナ教区の司教、そしてカルナ市政監の代表。

 エルナが馬車から降り立つと、小柄な男が一歩前へ出た。


「カルナ市政監補、ダリオ・フロレンと申します。遠路はるばるのお越し、光栄に存じます、殿下」


 鍵束がちり、と鳴った。


「こちらこそ、出迎えを感謝します」


 形式的な挨拶がひと通り交わされると、ダリオは橋を示した。


「せっかくですので、まずはカルナ橋の上から街と川をご覧いただければと。ここが、我らがベレシアの誇りにしてきた橋でございます」


 エルナは頷き、一行とともに橋へと足を踏み入れた。


 ◆


 石畳の感触が、靴の裏から伝わってくる。橋の手前の石はところどころ欠け、黒い痕が残っていた。

 欄干を支える石柱の根本近くに、小さな金属板がいくつも嵌め込まれている。擦り減った文字。苔に覆われ、ところどころ読めなくなった名。


「……ここが、あなたたちの誇る橋なのね」


 エルナが川面を見下ろすと、深く重たい流れが橋脚にぶつかり、白い泡を立てている。

 ダリオが頷いた。


「はい、殿下。カルナの者は皆、この橋が好きでして。『橋が立っている限り、私たちの国も立っている』と教えられて育ちます」

「おや、殿下はもうお気づきになりましたかな」

「この小さな板のこと?」

「古いお名前が刻まれているようだけれど……橋の寄進者?」

「似ておりますが、少し違います」

「これは『橋脚の名』でございます。昔、ここに最初の石橋を掛けたとき、人々は自分の名を刻んだ石を橋脚の奥に埋めたと伝わっております。『この橋が立っている間は、自分の名も立っている。この橋が落ちるときには、自分の名も一緒に沈む』と誓って」


 ダリオは続けた。


「ここに見えている板は、その“写し”でしてな。誰の家がどの橋脚を預かっているか、忘れないようにするためのものです」

「……最初の石橋の物語、ですね?」

「ご存じで?」

「簡単なあらすじだけは、書物で」


 セラは控えめに答える。


「……一人の若い石工が、人々から名と石を集めて橋を作った……そのくらいですが」


 ダリオは少しだけ声の調子を落とした。


「カルナでは、こんなふうにも語り継がれております。

『橋は、二つの岸のために立て。どちらか一方のためだけに立てた橋は、川が必ず呑み込む』と」


(橋は、二つの岸のために立て)

 帝国とベレシア。征服した側と、された側。聖火を掲げる者と、灰を抱いて立つ者。


 エルナの視線は、橋の中央――かつて爆発で崩れた部分へ向かった。継ぎ目には、まだどこかよそよそしい隙間があるように見える。


「この橋脚の奥に眠る名の中でも、特に有名なのが、ローレン家の名でして」

「ローレン家……」


 北境戦の報告書には、何度もその名前が出てきた。カルナ橋の戦い。ローレン家次男、エリアス・ローレン。

 紙の上では、その名の横に「戦犯」という烙印がきれいな書体で並んでいる。


 エルナは橋脚の奥の石を思い描こうとしたが、見えるのは報告書の紙だけだった。


「今では、ルーメニス教会もこの橋を“聖なる場所”として扱っております。ほら、あちらに小さな礼拝堂が見えるでしょう?」


 白い石造りの小礼拝堂。新しい聖火の紋章。


「『最初の石橋に光を与えたのは聖火である』と教えられております」


 セラは、礼拝堂に刻まれた文言を素早く書き留める。


(橋の神話も、“聖火”の名で語り直される)


 エルナは礼拝堂と橋と川を見渡していた。


「橋は、二つの岸のために立て、か……素敵な言葉ね。帝国とベレシアも、そうであればいいのに」


 セラがそっと言う。


「殿下の『誰も処刑しない』という約束も、そのための一本だと、わたしは思っております」

「紙の上の橋は、あなたが書いてくれたのよ、セラ。……その紙と、この石のあいだに立てる橋になりたい」


 川風が吹き、金色の髪を揺らした。


「帝国とベレシアの橋に――わたしがなれたら、いいのだけれど」

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