第3話 灰色の列車
聖イルミナ暦一〇三五年 十の月。
車輪が継ぎ目を踏むたび、列車は腹の底を小突くように揺れた。
貨物車両の中は暗い。
窓と呼べるものは、天井近くと左右に穿たれた通風口だけ。そこへ打ち付けられた鉄の格子から、世界は細く切り取られる。
白い雪原。灰色の空。黒い木立の影。どれも「遠い」色をしていた。
ここが祖国の土地であろうが、帝国の支配下であろうが、同じように冷たく、同じように無関心だ。
十の月。
二年前にも、同じ月があった。
エリアス・ローレンは、両手首を前で拘束されたまま膝を抱え、鎖の冷たさを掌に確かめていた。
指を動かすたび、皮膚に食い込んだ鉄が、今の自分の輪郭を主張する。油の匂いが喉に絡む。鉄と湿った木材の匂い。家畜か石炭でも運ぶための車両を、急ごしらえで「戦犯」用に仕立て直したのだろう。
人間は、荷物より軽い扱いをされるときがある。
帝都の広場で、紙吹雪が舞い、鐘が鳴り、勝利の曲が空に散っていった――あの光の眩しさだけが、耳の奥にまだ残っている。
「ベレシアで、誰も処刑しない」
遠い声だった。澄んでいて、信じたくなる声だった。
だが、今この貨物車両の闇の中で、あの言葉は別の形に変質して響く。
処刑しない。
だから、首は落ちない。
代わりに、鎖が落ちる。それだけの違いだ。
列車が揺れるたび、戦地で負った左脇腹の傷痕が鈍くうずいた。
車内には二十人ほどの男が詰め込まれている。
床に直接腰を下ろし、膝を抱え、目を伏せる。
顔立ちはまちまちだが、どの顔にも、同じ色の疲労が貼りついている。
敗戦国の兵士の荒い頬、官吏風の痩せた顎、誰かの父だったような中年の目。
彼らを繋ぐのは身分でも信条でもなく、足首の細い鎖と、同じ行き先だ。
「戦時特別裁判は、もう全部終わったんだとよ」
向かい側のひげ面が言った。声は低いが、言葉だけは妙に軽い。軽くしないと、喉が折れるのだろう。
「終わったから乗ってんだろ。処刑場じゃなくて、ありがたいこった」
別の男が鼻で笑う。笑いの形をしているだけで、そこに温度はない。
「『誰も処刑しない』だかなんだか知らねえが、椅子の上の連中が口で言ったもんは、紙に乗るまで何に化けるかわかったもんじゃない」
――紙。
その単語だけが、エリアスの中で硬い感触を伴って残った。
紙に書かれた瞬間、出来事は「出来事」になる。紙に書かれた瞬間、命は「数」になる。紙に書かれた瞬間、名は「札」になる。
そういう世界の作法の中で、エリアスは今、「紙の上で」戦犯になっていた。紙の上で橋を落とし、紙の上で罪を背負い、紙の上で生かされている。
ひげ面の男が、今度は独り言のように言った。
「どこまで運ばれるんだろうな。……北境自治区の監督所って聞いたが」
今度は、誰も答えなかった。処刑されないだけで、「見張られる側」の生活が始まることは、分かっていたからだ。
会話が途切れる。列車は走り続ける。冷えは深くなる。
そして、エリアスの脇腹に居座ったままの傷跡が告げる疼きが――約束のように、次の記憶を連れてくる。
(聖イルミナ暦一〇三三年。七の月。カルナ橋)
火。
土煙。
崩れ落ちる石のアーチ。
川面を跳ねる光が、次の瞬間には煤で濁る。
叫び声が、金属の音に飲まれて細くなる。橋の上に残る影――兵なのか、民なのか、もう区別がつかない。
エリアスは奥歯を噛みしめ、指先に力を込めた。鎖が鳴る。小さな金属音が、フラッシュバックの輪郭を少しだけ削った。
(エリアス・ローレン)
その名を、裁判所で何度呼ばれたか分からない。呼ばれるたび、名は彼のものではなくなっていった。
彼の名は彼の皮膚から剥がされ、紙に貼られ、番号と並べられ、「第一級戦犯」という欄の中で乾いていった。
――ローレンは橋を守る家だ。父の声が、一瞬だけ耳に刺さる。守るはずの橋を落とし、多くの命を奪ったという罪が、すぐあとから重なる。
トンネルを抜けた。遠くで汽笛が鳴った。短く、高い音。列車の速度が、わずかに落ちる。
「着くぞ」
誰かが言った。その言葉に、車内の空気が一段固くなる。
この列車から降りた瞬間、戦争は「終わったもの」ではなくなる。形を変え、名前を変え、紙を変え――それでも続く。
(国境……)
心の中で呟くと、喉の奥がわずかに痛んだ。橋を落とした男は、次はどんな橋の片側に立たされるのか。答えのない問いを胸に押し込み、エリアスは減速していく揺れに身を任せた。
――扉が開く音を、まだ聞かないふりをしながら。
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