第1章:机の下の楽園(エデン)
王城への帰還報告。国王陛下への謁見。褒賞の儀。 それら全ての公式行事を、レオンは神速で消化した。 通常の人間なら三時間はかかるであろう公式行事を、褒章はすべて断ることで後続の手続き含め全カットし、持ち前の超人的な身体能力と演算能力、そして何より「一秒でも早くあそこへ行きたい」という邪な情熱によって、わずか二十分で終わらせたのだ。
「――では陛下、これにて失礼いたします」
「う、うむ。……相変わらず欲のない男よな。ゆっくり休むとよい」
国王の感嘆の声を背に、レオンは退室した。 重厚な扉が閉まった瞬間、彼の纏う空気が変わる。 廊下を歩く速度は、競歩の世界記録を優に超えていた。すれ違うメイドや兵士たちが「え、今、風が通った?」とキョロキョロするほどの速度で、彼は西棟へと滑り込む。
目指すは、第二王女ソフィアの執務室。 ドアの前で一度立ち止まり、深呼吸。乱れた金髪を手櫛で整え、服の皺を伸ばす。 よし、完璧だ。 彼は恭しくノックをした。
「……どうぞ」
中から聞こえたのは、鈴を転がすような、しかしどこか儚げで消え入りそうな声。 その声を聞いただけで、レオンの脳内で快楽物質(エンドルフィン)が分泌される。 彼は静かにドアを開け、入室し、そして鍵をかけた。
部屋の中は、昼間だというのにカーテンが引かれ、薄暗かった。 本棚に囲まれた静寂の中、窓際の重厚なマホガニーの机に向かい、一人の少女が書類と格闘している。 ソフィア・リリアーヌ・ド・ロズワール。 この国の第二王女にして、レオンの「飼い主」である。 色素の薄い銀髪は月明かりのように柔らかく、透き通るような白い肌は、触れれば壊れてしまいそうな硝子細工を思わせる。病弱ゆえに社交界には滅多に顔を出さない、深窓の姫君。
「おかえりなさい、レオン。今回の遠征も大変だったでしょう?」
彼女は顔を上げ、ふわりと微笑んだ。それは聖女のような慈愛に満ちた笑みだった。 レオンは、無言で彼女に近づく。 通常の騎士なら、ここで片膝をつき、彼女の手に口づけをするだろう。 だが、最強の剣聖は違った。
彼は流れるような動作――戦場で見せる回避行動よりも遥かに洗練された動き――で、床に伏せた。 そのまま、スライディングの要領で、ソフィアが座る執務机の下へと滑り込んだのである。
「っ……!」
暗がりの中、レオンは息を呑んだ。 そこは、彼にとっての聖域(サンクチュアリ)だった。 狭い空間。漂うソフィアの残り香。 そして目の前には、華奢な足首と、黒い革靴に包まれた小さな足があった。
「あの……レオン?」
机の上から、困惑した声が降ってくる。
「姫様……ご無沙汰しておりました……」
机の下から、湿り気を帯びた美声が答える。
「遠征中、幾万の敵を斬り伏せながら、私はこの瞬間だけを夢見ておりました。さあ、どうぞお気になさらず執務をお続けください。私はここにある足置き(オットマン)に過ぎません」
「……またなのね」
ソフィアは小さく溜息をついた。呆れを含んでいるが、そこに拒絶の色はない。 彼女は知っているのだ。この国最強の英雄が、想像を絶するプレッシャーと孤独に戦っていることを(※勘違い)。そして、こうして甘えることでしか、精神の均衡を保てないほどに追い詰められていることを(※大いなる勘違い)。
「今日は……少し靴が硬いのだけれど、大丈夫?」
「望むところです」
レオンは即答した。 ソフィアはおずおずと、足を組み替えるふりをして、机の下に潜り込んでいる彼の頬に、靴底を押し当てた。
――至福。
レオンの全身を、電流のような衝撃が駆け抜けた。 冷たい革の感触。少し体重を乗せて踏み込んでくる遠慮がちな圧力。 普通なら屈辱以外の何物でもないその行為が、彼にとっては極上の鎮静剤だった。 千年に一度の才能と謳われた頭脳が、とろとろに溶けていく。 戦場での殺伐とした記憶が、姫様のヒールの先端によって物理的に上書きされていく。
「ふぅ……」
机の下から、何とも言えない安堵の吐息が漏れた。 ソフィアは再び書類に目を落とす。ペンを走らせながら、足元の英雄の頭を、まるで猫の背中を撫でるように足裏で優しく撫でた。
(……温かいわ)
ソフィアもまた、まんざらではなかった。 彼女は生まれつき体が弱く、誰かの役に立つことなどできないと思っていた。 けれど今、自分の足元で、国一番の英雄が幸せそうに目を閉じている。 自分がただ座っているだけで、彼を癒やすことができるのなら。 それは、彼女にとっても密かな喜びだったのだ。
机の下の変態と、机の上の聖女。 奇妙な共犯関係にある二人の時間は、穏やかに過ぎていく。
――コンコン。
「ソフィア殿下、王太子殿下がレオン様より戦勝報告の詳細をお聞きになりたいと」
無粋なノックが、楽園の静寂を破った。 侍女の声だ。 瞬間、机の下でレオンの目がカッと見開かれた。 その瞳は、先ほどまでの蕩けたものではない。戦場で魔王軍幹部を睨みつけた時と同じ、絶対零度の殺気を帯びていた。
(……あいつめ。俺の充電時間を邪魔するとは、いい度胸だ)
彼はソフィアの足首にそっと頬ずりをして名残を惜しむと、音もなく机の下から這い出た。 立ち上がり、服の埃を払った時には、すでに「完璧な騎士」の仮面を被り直している。
「レオン……?」
「行って参ります、姫様。……邪魔な雑務(あいつ)を片付けて、すぐに戻りますので」
爽やかに、しかし瞳の奥に狂気を宿して微笑むと、英雄は部屋を後にした。 残されたソフィアは、自身の足元を見つめ、少しだけ寂しそうに呟く。
「……もう少し、踏んであげたかったな」
この認識のズレが、やがて国を揺るがす騒動に発展することなど、この時の二人はまだ知る由もなかった。
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