【第一話】「……わかっていたつもりだったけど」
あの日、先生の家で思わぬ話が転がり込んできてから数日が過ぎた。オフィスでの日常業務は相変わらず忙しいけれど、私の頭の中では「保護猫ルポ」の企画がふつふつと形になり始めていた。先生の家のあの猫のことも気になりつつ、まずは編集者として動くべきだろう。
昼休みに入る少し前、私はいくつかの資料と企画の骨子をまとめたメモを手に、編集長のデスクへと向かった。
「編集長、少しお時間よろしいでしょうか?新しい企画のご相談なんですが」
編集長は山積みのゲラから顔を上げ、私を促す。私は少し緊張しながらも、用意してきたメモを示し、保護猫を取り巻く現状、里親探しの難しさ、そして先日個人的に出会ったエピソードを交えながら、企画の意図と取材の方向性を熱意を込めて説明した。先生が提案してくれた、動物病院や猫カフェへの取材についても触れる。
編集長は腕を組んで黙って聞いていたが、私が話し終えると、ふむ、と一つ頷いた。
「……保護猫か。悪くないテーマだな。切り口次第では読者の関心も引けるだろう。よし、綾瀬、その企画、進めてみろ。ただし、予算は抑えめにな」
「!はい、ありがとうございます!」
予想よりもあっさりとした許可に、私は思わず声が大きくなった。深く頭を下げて自分のデスクに戻ると、早速取材先リストの作成に取り掛かる。まずは動物病院と、保護猫活動に力を入れていると評判の猫カフェにアポイントを取ることにした。電話口で企画意図を説明し、取材を申し込む。幸いどちらも快く応じてくれた。
数日後、私はまずアポイントを取った動物病院を訪れていた。清潔感のある待合室を抜け、診察室の奥にある院長室に通される。白衣を着た穏やかな雰囲気の獣医師に、私は挨拶もそこそこに用意してきた質問をぶつけた。
「先生、出産間近の母猫を保護した場合、特に注意すべきことは何でしょうか?栄養面や環境面で、私たちができることは……」
獣医師は、私の質問に一つ一つ丁寧に答えてくれた。母猫のストレスを軽減するための環境作り、必要な栄養、出産前後の兆候、そして生まれた仔猫のケアについて。専門的な知識と、長年の経験に裏打ちされた言葉は、非常に具体的で説得力があった。私は必死にメモを取りながら、時折、先生の家のあの猫のことを思い浮かべていた
さらに別の日。今度は都心から少し離れた場所にある保護猫カフェへ足を運んだ。ガラス張りの店内には、様々な年齢や毛色の猫たちがキャットタワーで寛いだり、おもちゃでじゃれ合ったり、思い思いに過ごしている。その光景を見ているだけで、心が和む。
カフェのオーナーだという女性にカウンター席で話を聞いた。彼女はカフェを始めた経緯、保護猫の受け入れ状況、そして里親希望者とのマッチングの現実について、包み隠さず語ってくれた。
「譲渡率ですか……数字だけ見れば、年々少しずつ改善しているのかもしれません。でも、実感としては……やっぱり、成猫や、少し臆病な性格の子、病気や怪我を抱えている子の里親さんは、なかなか見つかりにくいのが現実ですね」
彼女は、カフェの片隅で丸くなっている少し年嵩の猫に優しい視線を向けながら言った。
「私たちは、ただ猫を『譲渡』するんじゃなくて、その子と里親さん、双方にとって幸せなマッチングをしたいんです。だから、時間はかかります。焦らず、じっくりと向き合っていくしかないんですよね」
その言葉には、現場ならではの重みがあった。私は彼女の話に深く頷きながら、ペンを走らせる。譲渡の割合という単純な数字だけでは見えない、現場の葛藤や想い。それを記事で伝えなければ、と思った。取材の合間に、足元にすり寄ってきた人懐っこい三毛猫の頭を撫でる。温かくて、柔らかい感触。
カフェを出る頃には、私の手帳はびっしりと文字で埋まっていた。思った以上にこのテーマは奥が深い。取材を通して知った現実と、そこに携わる人々の真摯な思い。これを読者にどう届けるか。編集者としての腕が鳴る、というものだ。同時に、先生の家にいる、まだ見ぬ仔猫たちの未来にも思いを馳せる。
(先生にも、今日の話、少し報告しなきゃな)
そんなことを考えながら、私は次の目的地へと急いだ。
オフィスの自席で私はパソコンの画面と睨めっこしていた。ディスプレイには先日取材した動物病院の獣医師と保護猫カフェのオーナーの話をまとめたテキストが映し出されている。傍らには、プリントアウトした保護動物に関する統計資料の束。記事の構成を練るため、熱のこもった現場の声と、客観的な数字を行き来する。
環境省の発表しているデータを見ると、犬猫の返還・譲渡率は確かに年々上昇していた。「数字だけ見れば、悪くない……むしろ、改善傾向にあるんだ」
少しだけ、安堵の息が漏れる。
けれど、すぐに猫カフェのオーナーが寂しそうに語っていた言葉が蘇る。「数字はそうかもしれませんけど、実感としては……やっぱり、シニアの子とか、病気やハンデのある子は、どうしても……」。譲渡されやすい子と、そうでない子。統計の数字の裏には、一つ一つ違う命の現実がある。
そして、どうしても触れなければならないのが「殺処分」の項目だ。取材で直接的に詳しい話を聞いたわけではないけれど、資料に記載されたその手順や、獣医師が言葉を選びながら語ってくれた現実を思い出す。記事にどう反映させるべきか、言葉を探しながらキーボードを叩く。けれど、その行為自体が、まるで自分がその冷たい現実に加担しているかのように感じられて、指が重くなる。
「……わかっていたつもりだったけど」
淡々とした事実を自分の言葉で活字にしていくうちに、ずしりとした重みが胸にのしかかってくる。思わずタイピングの手を止め、深く息をついた。画面に映る無機質な文字の羅列が、急に耐え難いものに思えてくる。
(でも、ここで目を背けちゃダメだ)
込み上げてくる無力感に負けそうになるのを、ぐっと堪える。
(せめて、先生のところにいるあの子……ううん、あの子たちだけでも、ちゃんと幸せな未来に繋げたい。そして、この記事で、少しでも……)
私はデスクの隅に置いてあった名刺入れを手に取った。中から取材させてもらった獣医師と猫カフェのオーナーの名刺を取り出す。そこに印刷された名前と所属を見つめる。真剣な眼差しで語ってくれた獣医師の顔、猫たちに優しく微笑みかけていたオーナーの姿が、脳裏に蘇る。彼らも、この現実と向き合いながら、懸命に活動しているんだ。
(私だって、編集者としてできることがあるはず)
胸の奥から静かだけど確かな力が湧き上がってくるのを感じた。私はもう一度顔を上げ、ディスプレイに向き直る。背筋を伸ばし、キーボードに指を置いた。迷いはもうない。この記事を、ただの数字や事実の羅列で終わらせない。読んだ人の心に何かを残せるものにする。決意を新たに、私は再びキーボードを叩き始めた。
重たいまぶたをこすりながら私はパソコンの電源を落とした。画面に映し出されていた無数の文字が消え、代わりに自分の疲れた顔がうっすらと反射する。記事の構成はようやく一段落したけれど、頭の中はまだ取材で得た情報や言葉でいっぱいだ。
「ふぅ……疲れた」
小さく呟いて、凝り固まった肩を回す。窓の外はすっかり暗くなっていて、オフィスの蛍光灯だけが煌々と室内を照らしていた。もう帰ろう。
コートを羽織り、バッグを持ってオフィスを出る。冷たい夜風が火照った頬に心地良い。足早に駅へと向かい、満員電車に揺られて最寄り駅に着く頃には、疲労はピークに達していた。
自宅マンションのドアを開け、「ただいまー」と、誰もいない部屋に向かって声をかける。返事はもちろんないけれど、いつもの習慣だ。ハイヒールを脱ぎ捨て、バッグをソファに放り投げるように置く。まずは、この窮屈なスーツを脱ぎ捨てたい。
クローゼットから引っ張り出したのは、肌触りの良いコットン素材のルームウェア。着替えるだけで身体中の力がふっと抜けていくのを感じる。そのままキッチンへ向かい、冷蔵庫から冷えた炭酸水を取り出してグラスに注いだ。シュワシュワと弾ける泡が、乾いた喉に心地よい。
夕食は、駅前のデリで買ってきたキッシュとサラダ。電子レンジで軽く温めて、ローテーブルに運ぶ。テレビのバラエティ番組をぼんやりと眺めながらフォークでキッシュを口に運んだ。美味しいけれど、なんだか味気ない。一人暮らしの食事なんて、大体こんなものだ。
食後のコーヒーを淹れ、ソファに深く腰掛ける。マグカップを両手で包み込むと温かさがじんわりと伝わってきた。ふと、窓の外に広がる夜景に目をやる。無数の光が瞬く、いつもの風景。その光のひとつひとつに、それぞれの生活があるんだな、なんて柄にもなく感傷的なことを考えてしまう。
その時、ふいに先生の家のガレージにいた、あの猫のことを思い出した。茶色と黒の、少し警戒心の強そうな目。
(あの子、今頃どうしてるかな……。もう、赤ちゃんは生まれたんだろうか)
雨の中、なぜ先生の家の前を選んだんだろう。お腹が大きくて、これ以上歩けなかったのかもしれない。安全な場所を探して、必死に鳴いていたんだろうか。どんなに心細くて、怖かっただろう。そして、そんな猫の声を聞いて、先生は……あの偏屈な先生は、一体どんな気持ちでガレージのドアを開けたんだろう。
考え始めると、色々な疑問が浮かんできた。
(……あ、そうだ。明日、休みじゃない)
スマートフォンのカレンダーアプリを開いて確認する。うん、間違いない、明日は土曜日で休みだ。
(よし、決めた)
マグカップをテーブルに置き、私は小さく頷いた。
(明日、先生のところに様子を見に行ってみよう。もしかしたら、可愛い仔猫たちに会えるかもしれないし!)
そう思うと、今日の疲れが少しだけ和らいだ気がした。少しお節介かもしれないけれど、やっぱり気になる。
歯を磨き、スキンケアを済ませてベッドに滑り込む。ふかふかの布団に包まれると心地よい眠気が襲ってきた。部屋の明かりを消すと、カーテンの隙間から差し込む月明かりがぼんやりと天井を照らしている。
明日のこと、猫のこと、そしてまだ完成していない記事のこと。色々な考えが頭の中を巡っていたけれど、いつの間にか私は深い眠りに落ちていた。
次の更新予定
綾瀬と先生 @Earth-es_molto_comodo
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