【第一話】「よし、とりあえず、第一歩」
私の問いかけに、先生は読んでいた雑誌をぱたりと膝の上に置いた。そして、まっすぐに私を見て、言った。
「里親探しはお願いするよ」
「…………え?」
思わず間抜けな声が出た。聞き間違いだろうか。今、先生は、はっきりと「お願いする」と言った?いつもの、あの「好きにしなさい」じゃなくて?
私が驚きで言葉を失っていると、先生は構わず話を続けた。
「あの猫、出産間近なようでね。ガレージにいた時のあの豪胆さも、母親のなせる技と言ったところだろう」
「しゅ、出産!?」
驚きが止まらない。あの猫が、お母さんに?だからあんなに警戒心が強かったのか。先生の「母親のなせる技」という言葉に、妙に腑に落ちるものを感じた。
「仔猫とまとめて引き取れる人なんて滅多にいないだろうし、猫たちにも相当のストレスになるだろうから、まあ半年くらいはこのままだろうがね」
半年……。ということは、仔猫が生まれてある程度育つまでは、先生が面倒を見るつもりなんだ。なんだか、ホッとしたような、でも本当に大丈夫なんだろうか、という気持ちが入り混じる。
「キミなら何かと人脈はあるだろうし」
先生は続ける。その言葉に私はハッとした。
「なんならルポにしてもいいかもしれないね。動物病院や猫カフェに、引き取りまで至った割合がどれくらいか聞いてみるとか、そういうのを記事にするのも面白いかもしれないね」
ルポ……記事……。
先生の口からそんな言葉が出てくるなんて、予想もしていなかった。でも、言われてみれば、確かに。保護猫の問題、里親探しの現状……社会的な関心も高いテーマだ。動物病院や猫カフェへの取材なんて、具体的なアイデアまで。
(先生、意外と分かってる……?)
ただ面倒事を押し付けられただけかと思ったけれど、そうじゃないのかもしれない。編集者としての私を見込んで、頼ってくれている?そう思うとなんだか悪い気はしない。むしろ、ちょっとワクワクしてきた。
「そ、それ、面白いですね!保護猫の現状とか、引き取り手のマッチングとか、確かに記事にできるかも……!」
驚きはまだ胸の中に渦巻いているけれど、それ以上に編集者としての好奇心が刺激される。
「わかりました。里親探し、ちょっと人脈を当たってみます。友達にも猫好きが多いですし。それと、そのルポの件も……少し、企画として考えてみますね!」
気づけば私は少し身を乗り出して、興奮気味にそう答えていた。なんだかただ先生の家に来ただけなのに、思わぬ仕事のネタまで見つけてしまったみたいだ。
里親探しにルポの企画。なんだか急に目の前が忙しくなった気がして少しだけ高揚していたけれど、ふと冷静になる。
(半年、か……)
先生の言葉を頭の中で繰り返す。半年後、ということは仔猫たちが生まれて、少しやんちゃになっているくらいの時期だ。私の頭の中に勝手に未来の光景が広がり始めた。
小さな毛玉みたいな仔猫が、数匹。よちよち歩きかと思えば、急に猛ダッシュして、リビングのあちこちを探検している。先生がいつものソファで難しい本を読もうとすれば、その膝によじ登ろうとしたり。パソコンに向かっていれば、キーボードの上を我が物顔で歩いたり。ガレージに行けば、先生の大事な原付の周りで追いかけっこを始めたり……。
そして、そんな仔猫たちに囲まれて、あの先生が。眉間に深い皺を刻んで(あるいは、いつもの無表情のまま)右往左往する仔猫たちを眺めている。追い払うでもなく、かといって積極的に構うでもなく、ただただ翻弄されている……そんな姿。
(……ぷっ)
想像しただけで思わず笑いが噴き出してしまった。慌てて口元を手で押さえる。だって、あの先生が?世間と自分を切り離して、偏屈を自称しているあの人が、小さな仔猫たちに振り回されてるなんて!
(想像つかなすぎる……!でも、見てみたいかも!)
込み上げてくる笑いを抑えきれず、肩が小さく震える。クスクスと声が漏れないように俯いていると、なんだか楽しくなってきた。
ちらりと先生の方を見ると、私の様子に気づいているのかいないのか、相変わらず静かに雑誌に目を落としている。その変わらなさとのギャップがまたおかしくて、私はしばらく笑いをこらえるのに必死だった。半年後、この家はどうなっているんだろう。ちょっと、いや、かなり楽しみかもしれない。
さっきまでの可笑しみが少し落ち着くと、私はソファに座り直してスマートフォンを取り出した。先生に頼まれた里親探し、それにルポの企画……。なんだか急に現実的な課題が目の前に現れた気分だ。でも、頼られたからには、ちゃんとやらないと。
(猫の里親、ね……)
メッセージアプリを開き、連絡先をスクロールしながら考える。私の周りには動物好きな友達が結構多い。その中でも、特に心当たりが……。
(あ、そうだ、サークルの先輩だった佐山さん!実家で猫を何匹も飼ってるって言ってた気がする。保護猫活動にも興味があるって言ってたし、何か知ってるかもしれない)
早速、佐山さんにメッセージを送ることにした。指が素早く画面をタップしていく。
『ご無沙汰してます、綾瀬です!突然なんだけど、猫の里親探しで相談があって……実は知り合いのところで出産間近の猫を保護していて、仔猫が生まれたら里親を探すことになったんです。もし佐山さんの周りで猫を探している人がいたり、何か情報があったりしたら教えてもらえませんか?』
こんな感じかな。送信ボタンを押すと、メッセージはすぐに相手に届いたことを示すマークに変わった。
「よし、とりあえず、第一歩」
すぐに返事が来るかは分からないけれど、これで少しは気が楽になった。スマートフォンをトートバッグにしまい込む。
ふと窓の外を見ると、午後の陽射しがだいぶ傾き、部屋の中に長い影を作り始めていた。もうそんな時間か。今日は直帰のつもりが、思いがけず長居してしまった。
「先生」
ソファから立ち上がり、ダイニングテーブルの方にいる先生に声をかける。
「今日はありがとうございました。なんだか色々……驚きましたけど。そろそろ、私、帰りますね」
ソファの背にかけていたジャケットを羽織る。
「猫のことも、もし何か手伝えることがあったらいつでも言ってください。里親探しの件も、また進展があったら連絡します。……あ、それと、ルポの件も、ちょっと真面目に考えてみますから」
先生は雑誌から目を離さずに、ただ小さく頷いたように見えた。まあ、いつものことだ。
私は玄関へ向かい、自分のパンプスに足を入れる。ドアを開けると外の空気がひんやりと感じられた。昼間の暖かさが嘘のように、少し肌寒い。空は茜色に染まり始めている。
「お邪魔しました」
もう一度、リビングの方に向かって声をかけ、私は先生の家を後にした。駅までの道を歩きながら、今日の出来事を反芻する。猫、出産、里親探し、ルポ……。そして仔猫に囲まれて困惑する(であろう)先生の姿。
(なんだか、これから面白くなりそう)
自然と口元が緩むのを感じながら、私は少し早足で駅へと向かった。
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