【第一話】「さっきの猫ですけど……」
リビングのドアを開けると、午後の柔らかな光が差し込む広い空間が目に入った。見慣れた大きなソファにも、窓際のパソコンデスクにも先生の姿はない。
(あれ?どこだろ)
きょろきょろと部屋を見渡し、ようやくその姿を見つけた。リビングの中央、大きなソファと向かい合うように置かれたテーブルではなく、少し奥まったダイニングスペースの食卓。そこの椅子に先生は座っていた。片手にはマグカップ、もう片方の手には、鮮やかな赤い表紙が印象的な雑誌が開かれている。ちらりと見えた文字から、たぶん自然科学系の月刊誌だろう。
(なーんだ、そっちか。いつもの場所じゃないんだ。予想、外しちゃった。残念)
内心で小さく舌打ちしながら私は先生の方へ数歩近づいた。先生は雑誌から目を上げない。
「先生、こんにちは。今日は、んー……特に用事はないんですけど、なんとなく、来ちゃいました」
少し照れ隠しのような、ぶっきらぼうな口調になってしまったかもしれない。言いながらも、頭の片隅ではガレージにいた猫のことが引っかかっている。まずは挨拶、それから……。
雑誌から視線を上げることなく、先生の声が低く響いた。
「そうか、好きにしなさい」
はいはい、いつものやつね。私は「お言葉に甘えまーす」と軽く返しながら、キッチンカウンターの方へ向かった。食器棚の扉を開けると見慣れたマグカップがいくつか並んでいる。その中から、私が勝手に持ち込んで置かせてもらっている淡いピンク色のカップを選んで手に取った。
ダイニングテーブルの端にはガラス製のコーヒーサーバーが置かれている。まだ温かい湯気がうっすらと立ち上っていた。すぐそばでは、先生が相変わらず雑誌に没頭している。私は黙って隣に立ち、自分のカップに琥珀色の液体を注いだ。ふわりと香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。先生は、私がコーヒーを淹れている間も特に反応を示さない。
コーヒーの入ったカップを慎重に運び、リビングの中央にどっしりと構える大きなソファへと向かう。仕事用のジャケットを脱いでソファの背にかけ、深く腰を下ろした。布の感触が心地いい。テーブルにカップを置くと、「ふぅ…」と自然に息が漏れた。外の緊張感から解放されて、いつもの自分に戻っていく感覚。
一息ついて、改めてダイニングテーブルの方にいる先生を見る。そして、ここに来る途中で見た、あの光景を思い出す。閉まりきらないガレージのシャッター、挟まれた角材、そして一瞬だけ目が合ったあの猫……。
ソファの向こう、ダイニングテーブルで静かに雑誌を読んでいる先生に視線を向ける。よし、と心の中で呟き、私は口を開いた。
「そういえば、先生」
呼びかけると、先生の手がぴたりと止まった気がした。いや、気のせいかもしれない。
「さっきここに来る時、ガレージの前で猫を見たんですけど……茶色と黒のぶちみたいな猫。私と目が合ったら、中に駆け込んでいっちゃった」
一息にそこまで言って、私は言葉を続ける。
「それに、ガレージのシャッター、少し開いてましたよね?角材みたいなのが挟まってて。……あれ、どうしたんですか?あの猫、もしかして、先生が……飼ってるんですか?」
世捨て人みたいな先生が、猫?どうしても結びつかなくて、声が少し上ずるのを感じた。好奇心と、ほんの少しの戸惑い。私はソファに座り直して、先生の言葉を待った。リビングには午後の光と、ページをめくる微かな音だけが漂っている。
先生は雑誌のページをめくる手を止め、ようやくこちらに視線を向けた。けれど、その表情からは何も読み取れない。いつもの、少しだけ他人事のような口調で話し始めた。
「少し前にガレージのシャッターを開けて作業をしていたら、段ボールの空き箱に入り込んだようでね。そのまま気付かずにシャッターを下ろして夜になったんだが、鳴き声に気付いてシャッターを開けても出ていくどころか餌を寄越せとうるさくてね」
そこまで聞いて私は「へぇ、そんな偶然が…」と相槌を打ちかけた。野良猫が迷い込んできた、ということらしい。でも、先生の次の言葉に、私は思わず眉をひそめた。
「私は誰かさんみたいにまた根負けして寝床と食事を提供している、というわけさ」
……誰かさん?
その言い方、絶対に私のことだ。高校生の時、雨の中、この家の前でしゃがみ込んで、結局先生に保護された、あの時のこと。先生は、あの時のことを「根負けした」なんて思ってたんだ。
「ちょっ……!誰かさんって、それ、私のこと言ってるでしょ!」
思わず立ち上がりそうになるのをソファの上でぐっとこらえ、顔が熱くなるのを感じる。もう何年も前のことなのに、こうやって蒸し返されるのはやっぱり恥ずかしいし、ちょっと腹も立つ。
「もー、先生ったら!人聞き悪いですよ、根負けって!あの時は、状況が状況だったんですから!っていうか、先生だって心配してくれたんじゃないですかっ」
口早に反論してみるけれど、先生はどこ吹く風、といった表情でまた雑誌に目を落としそうだ。ちぇっ、全然効いてない。
気を取り直して私はソファに座り直した。まあ、先生が猫の世話をしているというのは、ちょっと意外だけど面白い。
「それで、その猫、今どうしてるんですか?ガレージにいるんですよね?さっき私が見た時、ちょっと警戒してるみたいだったけど……」
好奇心がむくむくと湧き上がってくる。どんな猫なんだろう。
「ちょっと、見に行ってもいいですか?」
言いながら私はもうソファから腰を浮かせかけていた。あの先生が、成り行きとはいえ猫の面倒を見ているなんて。やっぱり、ちょっと様子が気になる。
「どうぞお好きに」
相変わらず、先生は雑誌から顔も上げずにそう答えた。はいはい、どうも。私は軽く心の中でお礼を言って、リビングの隅にあるガレージへと続くドアに手をかけた。
少し重いドアを開けると、ひんやりとした空気と、オイルや埃が混じったような独特の匂いが鼻をつく。薄暗いガレージの中、正面にはいつものシルバーの原付が鎮座している。以前バイク雑誌の企画を担当した時にこっそり調べてみたら、なんと製造から30年は経っている年代物だった。先生は「壊れないから使っているだけだ」なんて嘯くけれど、あちこち丁寧に磨かれた車体を見れば、本当はすごく気に入っているのが私にはお見通しだ。偏屈なりの愛着ってやつかな。
その愛車の向こう側、壁際の隅に目をやるとダンボール箱が横倒しに置かれているのが見えた。あそこが先生が用意したという猫の寝床らしい。箱の入り口から、さっき玄関先で見た茶色と黒のまだらな毛並みが少しだけ覗いている。じっと身を潜めているようだ。
ダンボール箱の手前には白い洋食器が一つ置かれていた。リビングで使っているのと同じ、何の飾り気もないシンプルなやつ。先生、こういう食器好きだよね。よく見ると、お皿の縁には餌で汚れないように丁寧にラップが巻かれている。そういうところは妙にマメなんだから。そして、肝心のお皿の中は、綺麗に空っぽになっていた。ちゃんとご飯、もらえたんだ。
もう少し近くで顔を見てみたい気もしたけれど、私が近づいたらまた奥に引っ込んでしまうかもしれない。せっかく落ち着いているみたいだし、驚かせたら可哀想だ。私はそっとドアの方へ引き返し、静かにガレージを後にした。本当に、先生が猫の世話ねぇ……。なんだか面白いものを見ちゃった気分だ。
リビングに戻り、ガレージのドアをそっと閉めた。さっきまで見てきた光景がまだ目に焼き付いている。あのダンボール箱と、空っぽの白い食器、そして先生の「根負けした」という言葉。
私は部屋の中央にあるソファに戻り、改めて腰を下ろした。ふぅ、と息をつく。窓の外は穏やかな午後で、さっきまでのちょっとした興奮が少しずつ落ち着いてくる。
でも、やっぱり気になる。先生はあの猫をこれからどうするつもりなんだろう。
「先生」
ダイニングテーブルで相変わらず雑誌に目を落としている先生に私は声をかけた。
「さっきの猫ですけど……」
少し間を置いて、続ける。
「あの子、これからどうするんですか?まさか、ずっと先生がこのままガレージで面倒見るんですか?」
だって先生はそういうタイプじゃないでしょう、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。
「怪我とかはしてなさそうでしたけど、野良猫なんですよね?誰か……例えば、里親を探すとか、そういうのは考えてないんですか?」
少しお節介なことを言っている自覚はある。でも、放っておけない。それに先生一人で猫の世話なんて、大変じゃないだろうか。
「もし……もし何か、私に手伝えることがあったら言ってくださいね。猫、ちょっと可哀想だし」
少しだけ語尾を弱めて付け加える。さて、先生はなんて答えるだろう。私はソファの上で少し身じろぎしながら、先生の言葉を待った。リビングには、午後の静かな時間だけが流れていた。
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