綾瀬と先生

@Earth-es_molto_comodo

【第一話:綾瀬と先生】

【第一話】「お邪魔しまーす」

 高層ビルの窓からはミニチュアのようになった車が忙しなく流れるのが見える。その光景を背に私はラップトップの画面に集中していた。打ち合わせ用の資料作成、ゲラのチェック、作家へのメール返信……。キーボードを叩く音とフロアに響く電話の呼び出し音、同僚たちの話し声が混ざり合ういつものオフィス。指先には昨日新しくしたばかりの春らしいパステルカラーのネイルが光る。こういう小さなこだわりが、仕事のモチベーションに繋がるのだから馬鹿にできない。

「綾瀬さん、そろそろ時間じゃない?」

 隣のデスクの先輩が資料の束を持ちながら声をかけてきた。時計を見上げれば針は約束の時間を示している。

「あ、本当だ。ありがとうございます!」

 慌ててラップトップを閉じ、デスクに散らばった書類をクリアファイルにまとめる。今日の打ち合わせ相手は、少し気難しいことで有名なベテラン作家だ。けれど、だからこそ燃えるというもの。彼の才能を引き出すのが私の仕事なのだから。

「じゃ、及川先生と打ち合わせ、行ってきます。戻りは……たぶん直帰します!」

 ジャケットを羽織り、少し大きめのトートバッグを肩にかける。中にはゲラ刷りやら企画書やら、私の仕事道具がぎっしり詰まっている。フロアを出てエレベーターホールへ向かう足取りは、自然と早足になった。


 及川先生との打ち合わせは予想通り白熱したものになったけれど、なんとか着地点を見つけ、建設的な話し合いができた。帰り道、駅へ向かう雑踏の中でスマートフォンを取り出して時間を確認する。まだ夕方にも早い時間。会社へ戻る必要もないだろう。

(……今日はこのまま帰ろう)

 少し疲れた頭でぼんやりと考える。家に直行して、好きな香りの入浴剤を入れたお風呂にゆっくり浸かるのもいい。でも……。

 ふと、『先生』の顔が思い浮かんだ。

 あの、世間から切り離されたような静かな家。哲学者のような、掴みどころのない先生。しばらく顔を見ていないな、と思う。

(……そうだ、先生のところに寄って行こうかな)

 あそこは、なんだか不思議と落ち着く。私のちょっとした避難場所みたいなところ。別に深い理由があるわけじゃない。ただ、今日の気難しい作家との攻防戦でささくれだった心を静めるには、あの静かな空間はちょうどいい。そんな気分だった。

 私は踵を返しタクシー乗り場へと足を向けた。少し郊外にある、先生の住む街へ。


 タクシーは見慣れた住宅街の一角で静かに停車した。料金を支払い、軽い会釈をして車を見送る。夕暮れ時の空気が火照った頬に心地よかった。オフィス街の喧騒とは違う、落ち着いた時間がここには流れている。

 目の前には先生の住む平屋の家。いつ来ても変わらない、少し古風な佇まいだ。門扉を押し開け、玄関へと続く短いアプローチを進む。ふと、いつもはきっちり閉まっているはずのガレージのシャッターが数センチほど開いていることに気がついた。よく見るとシャッターの下端に無骨な角材が挟まれている。

(…あれ?開けっ放し?)

 防犯意識なんて先生にはないのかもしれないけど、不用心だな、と思ったその時。

 ガレージのわずかな隙間の手前に何かがうずくまっているのが見えた。茶色と黒が混じったような毛並みの、一匹の猫。私と視線がかち合うと「にゃっ」と短く鳴き、素早く身を翻してガレージの暗がりへと姿を消した。

(……猫?)

 一瞬、何が起こったのかわからなかった。だって、あの先生が?世俗的なことにはとことん無頓着で、「世間と私は相性が悪い」なんてうそぶいている人が、猫?

(まさか、飼い始めた……とか?)

 いやいや、想像がつかない。でも、今の猫は確かにここにいた。頭の中に疑問符をたくさん浮かべながら私は玄関のドアの横にあるインターホンに指を伸ばした。ピンポーン、と軽やかな音が静かな周囲に響く。さて、先生はどんな顔をして出てくるだろうか。


 インターホンのスピーカーからくぐもった、けれど聞き慣れた声が響いた。

『どうぞ』

 短く、それだけ。きっとカメラで私の顔を確認したのだろう。

「…はい」

 返事をしたものの玄関のドアが開く気配はない。まあ、いつものことか。先生がわざわざ玄関まで迎えに出てきてくれるなんて、期待する方が間違っている。

「もう、相変わらずなんだから…」

 小さく溜息をつきながら私は肩にかけたトートバッグを探った。指先にキーケースの冷たい感触が当たる。中から取り出したのは、この家の合鍵。以前「いつ来てもいいって言うなら、先生が留守の時でも入れるように鍵作ってくださいよ!」と半ば強引にお願いして作ってもらったものだ。先生は少し面倒くさそうな顔をしていたけれど、結局は「好きにしなさい」と言ってくれたんだった。

 カチャリ、と軽い金属音を立てて鍵が回り、重い玄関ドアが内側へ開いた。

「お邪魔しまーす」

 少し大きめの声で呼びかけながら、家の中へ足を踏み入れる。ひんやりとした空気と、先生の家独特の、古書と珈琲が混ざったような落ち着いた匂いが私を迎えた。

 玄関でパンプスを脱ぎながら無意識にガレージの方角へ意識が向く。さっきの猫、まだいるんだろうか。そして、なんで先生の家に…?

 疑問を抱えたまま、私はリビングへと続く廊下へ足を向けた。


 廊下は少しひんやりとしていて、外の明るさとは対照的に光が届きにくい。自分の足音だけが静かに響く。突き当りのリビングのドアが見えてきた。

(先生、どこにいるかな……)

 いつもの指定席である大きなソファで、分厚い本でも読んでいるだろうか。それとも、窓際のパソコンデスクに向かって、また何か研究か作業に没頭しているのか。あの人の行動パターンは、だいたいそのどちらかだ。

 どちらにしても、私が来たことに気づいているのかいないのか、きっと素知らぬ顔をしているに違いない。ドアノブに手をかけながらそんな先生の姿を思い浮かべて、小さく息をつく。

 でも、それよりも気になるのは、さっきガレージで見かけた猫のことだ。あれはいったい……?

 疑問を胸の奥にしまい込み、私はリビングのドアを静かに開けた。

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