第24話 声にならない

 最後のページを閉じても、文字は消えなかった。

 目を逸らしても、そこに残り続けている気がした。

 オサムは、しばらくその場から動けなかった。

 椅子に座ったまま、日記を両手で抱えている。

 抱きしめているというより、落とさないように掴んでいるだけだった。

 部屋は静かだった。

 時計の秒針が進む音が、やけに大きい。

 ――大好きだった。

 その言葉が、胸の奥で何度も反響する。

 自分に向けられた言葉だと、理解するのに時間がかかった。

 冗談だろう、と思おうとした。

 勘違いだ、と言い聞かせようとした。

 だが、日和の文字は、どこまでも静かで、真剣だった。

 迷いも、照れも、逃げもない。

 ただ、決めた人の文字だった。

 喉が、ひくりと鳴った。

 息を吸おうとして、途中で止まる。

「……っ」

 声を出そうとしたはずだった。

 だが、音にならなかった。

 代わりに、胸の奥が崩れた。

 どうして、気づかなかったのだろう。

 どうして、聞かなかったのだろう。

 夜の窓辺。

 外の話をねだる声。

 「いいな」と、少しだけ伏せられた視線。

 あれは、羨望だった。

 憧れだった。

 そして――諦めだった。

 オサムは、ゆっくりと床に座り込んだ。

 力が抜け、背中が壁に当たる。

 涙が出る、という感覚はなかった。

 ただ、視界が滲み、呼吸が乱れた。

 喉の奥から、変な音が漏れる。

 獣の鳴き声のような、壊れた空気の振動。

 ――俺は、何を見せられていたんだ。

 日和は、ずっと見ていた。

 自分が頭を下げる姿も、

 夜遅くに帰る背中も、

 疲れ切って、それでも翌朝また家を出る姿も。

 生きることを、苦しみながら続ける姿を。

 それが、彼女の救いだったなんて。

 それが、彼女の「生」だったなんて。

 オサムは、歯を食いしばった。

 奥歯が軋む。

「……ふざ、けるな……」

 小さな声が、ようやく形になる。

 代わりに生きろ?

 簡単に言うな。

 俺は、立派でも、強くもない。

 逃げたかった。

 終わらせたかった。

 そんな人間に、人生を託すなんて。

 だが、その言葉の裏にあったものを、

 もう理解してしまっていた。

 日和は、選んだのだ。

 自分の人生の終わり方を。

 そして、託す相手を。

 それが、オサムだった。

 声が、詰まる。

 喉の奥が熱くなり、視界が完全に歪んだ。

 もう、抑えられなかった。

 嗚咽が、漏れた。

 肩が大きく上下し、息が乱れる。

 声を出して泣いているのか、

 それとも息を失っているのか、

 自分でも分からない。

 ただ、身体が勝手に震えていた。

 日記を、胸に押し付ける。

 紙越しに伝わる体温は、当然、ない。

 それでも、離せなかった。

 ――生きろ。

 日和の声が、はっきりと聞こえた気がした。

 生きて、走って、

 太陽の下を歩いて、

 彼女が見られなかったものを、全部。

 それは、命令ではなかった。

 願いだった。

 オサムは、床に額をつけた。

 情けない姿勢だったが、どうでもよかった。

「……ごめん……」

 誰に向けた言葉かも、分からない。

 助けられたことへの謝罪か。

 気づけなかったことへの後悔か。

 それとも、これからも生きてしまうことへの、言い訳か。

 涙が、床に落ちた。

 一滴、また一滴。

 やがて、泣き疲れたように、呼吸が少しずつ整っていく。

 その時、ふと気づいた。

 自分は、まだ生きている。

 息をしている。

 心臓が、動いている。

 日和が、命を使って繋いだ時間の中にいる。

 オサムは、ゆっくりと顔を上げた。

 目は赤く、視界はまだ滲んでいる。

 それでも、立ち上がった。

 日記を、丁寧に閉じる。

 机の上に置くのではなく、胸に抱えた。

 ――逃げない。

 少なくとも、もう一度だけは。

 それが、彼女への返事になると、

 今はそう信じるしかなかった。

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