第23話 託されたもの
日記は、最後の数ページだけ、紙の色が違っていた。
少し黄ばんでいて、端がわずかに反っている。
オサムは、それをめくるのをためらった。
ここから先を読めば、もう戻れない気がした。
それでも、指は止まらなかった。
〈今日は、風が強い〉
〈夜だから、少しだけ窓を開けられた〉
日和の文字は、相変わらず静かだった。
感情を押し付けない。
ただ、事実だけを置いていく。
〈オサムさんは、今日も走っていた〉
〈雨なのに、止まらなかった〉
〈あの人は、何度も折れそうなのに、まだ立っている〉
喉の奥が、きゅっと縮む。
自分が見られていたこと。
毎日、窓の内側から。
それは、恥ずかしさよりも、
取り返しのつかない重さとして胸に落ちてきた。
〈本当は、私が終わらせるつもりだった〉
オサムの呼吸が、一瞬止まる。
〈もう十分、生きたと思っていた〉
〈外に出られない人生〉
〈太陽を知らない時間〉
〈それでも、世界は続いていく〉
ペンの跡が、少し強くなっていた。
〈でも、あの夜〉
〈橋の上のあなたを見て、考えが変わった〉
ページをめくる音が、やけに大きく響く。
〈あなたは、壊れかけていた〉
〈それでも、世界の中に立っていた〉
〈私は、立つことすらできなかった〉
オサムは、日記を持つ手に力が入るのを感じた。
〈だから、決めた〉
〈この人に、私の人生を渡そう〉
〈私が歩けなかった時間を〉
〈私が浴びられなかった光を〉
文字が、滲んで見えた。
涙ではない。
視界が、現実を拒んでいる。
〈夜だった〉
〈だから、外に出られた〉
〈だから、あなたを助けに行けた〉
あの時の、雷。
雨。
冷たい水。
――全部、日和が背負っていた。
〈助けたのは、あなた〉
〈でも、生かしてもらったのは、私〉
最後のページ。
そこだけ、文字が少しだけ震えていた。
『大好きだったオサムさんへ。
私の代わりに、セカンドライフを歩んでください。』
読み終えた瞬間、
音が消えた。
秒針の音も、
遠くの車の音も、
何も聞こえなくなった。
オサムは、床に座り込んだ。
声を出そうとしても、喉が動かない。
泣こうとしても、涙が追いつかない。
ただ、胸の奥が、壊れたように痛んだ。
「……なんでだよ……」
ようやく漏れた声は、
自分のものとは思えないほど、掠れていた。
日和は、外に出られなかった。
太陽を浴びられなかった。
それでも、誰かの人生を見て、選び、託した。
自分は、逃げようとしていた。
それなのに、救われた。
オサムは、日記を胸に抱きしめた。
初めて、はっきりと分かった。
これは「借りた命」じゃない。
「預けられた人生」だ。
――生きなきゃいけない。
うまくいかなくても。
苦しくても。
みっともなくても。
この人生は、
もう一人分の重さを持っている。
オサムは、ゆっくりと立ち上がった。
窓の外では、
朝日が、静かに街を照らしていた。
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