第22話 日記
屋敷は、音を失っていた。
朝になっても、日和の姿はなかった。
カーテンは閉じられたまま、食卓も手つかずで、時計の針だけが淡々と時間を刻んでいる。
「……日和さん」
呼んでも、返事はない。
胸の奥に、小さな違和感が積もっていく。
理由は分からない。
ただ、この家に漂っていた気配が、きれいに消えてしまったような感覚があった。
オサムは、日和の部屋の前に立った。
普段は決して入らなかった部屋だ。
ノックをしても、やはり返事はない。
ドアノブに手をかける。
鍵は、かかっていなかった。
部屋は整然としていた。
余計なものはなく、窓際に机がひとつ、ベッドがひとつ。
机の上に、一冊のノートが置かれている。
黒い表紙。
見覚えのある筆跡で、名前だけが書かれていた。
――日和。
オサムは、その場に立ち尽くした。
触れてはいけないものに、触れようとしている気がした。
それでも、ページを開いた。
〈今日は雨だった〉
〈外の人たちは、みんな濡れていた〉
〈オサムさんも、きっと濡れている〉
淡々とした文章だった。
感情を押し殺したような、静かな言葉。
ページをめくる。
〈太陽は今日も強かった〉
〈カーテン越しに光を見る〉
〈私は、この距離でしか世界を知らない〉
少しずつ、胸が締め付けられていく。
〈窓から、毎日同じ人を見る〉
〈スーツを着て、走っている〉
〈苦しそうなのに、止まらない〉
オサムは、息を詰めた。
〈あの人は、私よりずっと外にいる〉
〈それなのに、私より苦しそう〉
ページをめくる手が、震え始める。
〈本当は、もう決めていた〉
〈私は長く生きられない〉
〈太陽の下を歩くこともない〉
文字が、少し乱れていた。
〈台風の日〉
〈橋の上に、あの人がいた〉
〈夜だった〉
〈だから、外に出られた〉
オサムは、日記を強く握った。
〈私は思った〉
〈この人に、私の人生をあげたい〉
〈私が生きられなかった時間を〉
〈太陽の下を〉
最後のページに、文字は少なかった。
丁寧に、ゆっくりと書かれている。
『大好きだったオサムさんへ。
私の代わりに、セカンドライフを歩んでください。』
そこまで読んだ瞬間、
視界が歪んだ。
喉が詰まり、息ができない。
声を出そうとしても、何も出なかった。
床に座り込み、オサムは日記を抱きしめた。
胸の奥が、壊れたように痛んだ。
――俺は。
救われたのではない。
託されたのだ。
その重さが、ようやく分かった。
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