第21話 消えた朝

 朝、目覚めた時、家が静かすぎた。

 最初は、ただ早い時間なだけだと思った。

 屋敷は広い。音が反響しない朝もある。

 オサムはベッドから起き上がり、時計を見た。

 七時半。

 いつもなら、もう日和は窓辺に立っている時間だ。

「……日和さん?」

 呼びかけても、返事はない。

 声が、妙に空気に吸われる。

 廊下を歩く。

 足音がやけに大きく響いた。

 リビングには、誰もいなかった。

 カーテンは閉じられたまま。

 紅茶の香りもしない。

 キッチンも、書斎も、日和の部屋も。

 どこにも、彼女の気配がなかった。

 ――たまたま、寝ているだけだ。

 そう思おうとした。

 だが、胸の奥で、嫌な感覚が膨らんでいく。

 玄関に向かった時、オサムは立ち止まった。

 日和の靴が、なかった。

 いつも揃えられていた、外に出ることのない靴。

 それが、消えていた。

 喉が、ひくりと鳴る。

「……嘘だろ」

 家中を、もう一度探した。

 名前を呼びながら、部屋を開けては閉める。

 返事は、ない。

 代わりに、書斎の机の上に、一冊のノートが置かれているのに気づいた。

 昨日までは、なかったはずのもの。

 白い表紙。

 少し角が擦れている。

 オサムは、それを手に取った。

 なぜか、すぐに分かった。

 ――日記だ。

 ページを開く前に、手が止まる。

 読めば、何かが終わる。

 そんな予感が、はっきりとあった。

 それでも、開いた。

 丁寧な字だった。

 強くもなく、弱くもなく、

 ただ静かに、淡々と書かれている。

〈今日は、風が強かった〉

〈夜だったから、少しだけ窓を開けた〉

 何気ない言葉。

 日常の断片。

 ページをめくるごとに、

 オサムは自分が“見られていた”時間の長さを知っていく。

〈走っている姿を見るのが、好きだった〉

〈苦しそうなのに、止まらなかった〉

 指先が、震え始める。

〈この人は、生きている〉

〈私と違って〉

 呼吸が、浅くなる。

 最後の方のページになるにつれ、

 文字が少しだけ乱れていた。

〈もう、あまり時間がない〉

〈でも、後悔はしていない〉

 そして、最後のページ。

 そこには、短い言葉だけが残されていた。

『大好きだったオサムさんへ。

 私の代わりに、セカンドライフを歩んでください。』

 一瞬、意味が理解できなかった。

 次の瞬間、

 胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。

「……日和さん……?」

 声が、震えている。

 いや、震えているのは身体全体だった。

 ページが滲む。

 文字が、溶ける。

 喉を開こうとしても、

 音が出ない。

 床に膝をつき、

 オサムは日記を抱きしめた。

 抱きしめるしか、できなかった。

 声にならない叫びが、

 胸の中で何度も跳ね返る。

 朝日が、カーテンの隙間から差し込んでいた。

 日和が、一度も浴びることのなかった光。

 その光の中で、

 オサムは、ただ崩れ落ちていた。

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