第20話 予感

 その朝、オサムは目覚めた瞬間に違和感を覚えた。

 屋敷が、静かすぎる。

 いつもなら、どこかで微かに聞こえる生活音――

 食器が触れ合う音、湯を沸かす気配、

 あるいは、日和が窓辺を歩く足音。

 それが、なかった。

「……日和?」

 名前を呼ぶ声が、広い廊下に吸い込まれていく。

 返事はない。

 胸の奥が、嫌な形でざわついた。

 リビングにも、キッチンにも、日和の姿はなかった。

 カーテンは閉じられたまま。

 テーブルの上には、何も置かれていない。

 ――出かけている?

 そう考えて、すぐに否定した。

 彼女は、外に出ない。

 それは最初から、決して変わらなかった。

 仕事の支度をしながらも、集中できなかった。

 ネクタイを結び直し、靴を履いたところで、足が止まる。

 今日は、行かない方がいい。

 理由は分からない。

 ただ、そう思った。

 だが――

 オサムは結局、玄関を出た。

 日和が望んだのは、

 自分が「普通に生きる」ことだったからだ。

 外の空は、曇っていた。

 薄い雲が太陽を覆い、光はあるのに、影がはっきりしない。

 営業先を回りながらも、頭の中には日和のことばかりが浮かんだ。

 最近、彼女はよく黙っていた。

 話しかければ答える。

 笑顔も、いつも通りだった。

 それでも――

 どこか、遠くを見ているような目をしていた。

 夜、屋敷に戻ると、明かりが点いていた。

 ほっとしたのは、一瞬だけだった。

 リビングの中央に、日和が立っていた。

 白いワンピース姿で、

 まるで来客を待つように、きちんと背筋を伸ばして。

「おかえりなさい」

 その声は、穏やかだった。

 あまりにも、いつも通りで。

「……ただいま」

 オサムは、言葉を選びながら近づいた。

「朝、いなかったですよね」

「うん」

 日和は、あっさり頷いた。

「少し、整理してた」

「整理?」

 問い返すと、彼女は微笑んだ。

「思い出とか。

 もう、増えないものだから」

 胸の奥が、冷たくなった。

「……どういう意味ですか」

 日和は答えなかった。

 ただ、窓の方へ視線を向ける。

 カーテンの隙間から、

 弱い光が、床に細い線を描いていた。

「オサムさん」

 彼女は、ゆっくりと言った。

「最近、ちゃんと眠れてる?」

「……はい」

「仕事は?」

「前よりは、うまくいってます」

「そう」

 満足そうに、頷く。

 それが、あまりにも“確認”のように聞こえて、

 オサムは思わず口を開いた。

「日和、どこか悪いんですか」

 一瞬、空気が止まった。

 日和は驚いたように目を瞬かせ、

 それから、少しだけ困った顔で笑った。

「どうして?」

「……なんとなく」

 なんとなく。

 それは嘘だった。

 オサムは、ずっと感じていた。

 日和が、少しずつ、この世界から距離を取っていることを。

「大丈夫だよ」

 日和は、そう言って、

 オサムの袖を軽く掴んだ。

 細い指だった。

 驚くほど、軽かった。

「私はね、

 ちゃんと見たかったの」

「……何をですか」

「人が、生きていくところ」

 その言葉に、胸が締めつけられる。

「オサムさんが、走ってるところ」

 彼女は、まっすぐこちらを見た。

「それだけで、十分だった」

 その夜、オサムはほとんど眠れなかった。

 ベッドの中で、何度も天井を見つめる。

 隣の部屋からは、音一つしない。

 ――失いたくない。

 初めて、はっきりとそう思った。

 だが同時に、

 もう手遅れなのだという予感も、

 確かにそこにあった。

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