第19話 空白の音

 屋敷は、音を失っていた。

 正確に言えば、音はある。

 時計の秒針。

 冷蔵庫の低い駆動音。

 遠くを走る車の気配。

 だが、それらはすべて、意味を持たない音だった。

 オサムは、リビングの中央に立ったまま動けずにいた。

 日和がいなくなってから、三日が経っている。

 警察にも連絡した。

 病院にも問い合わせた。

 だが、彼女の名前は、どこにもなかった。

「……いない、のか」

 呟いた声が、妙に大きく響いた。

 これまでも、日和は多くを語らなかった。

 外出もしない。

 電話もしない。

 訪ねてくる人間もいない。

 それでも、そこにいるという確かさだけはあった。

 窓辺に立つ気配。

 帰宅を待つ視線。

 「おかえり」という、あの短い言葉。

 それが消えた今、屋敷はただの箱だった。

 オサムは、ソファに腰を下ろした。

 背もたれに体を預けると、深く沈み込む。

 ――俺は、何をしている。

 ふと、そんな疑問が浮かんだ。

 仕事には行っている。

 営業成績も、少しずつ上向いている。

 生活は、破綻していない。

 それなのに、心の奥が空洞だった。

 スマホを手に取る。

 連絡先を開いても、日和の名前はない。

 最初から、登録していなかった。

 ――そうか。

 彼女は、最初から「いなくなる存在」だったのだ。

 オサムは、屋敷を歩き回った。

 意味もなく、部屋を一つずつ確認する。

 寝室。

 書斎。

 使われていない客間。

 そして、日和がよくいた部屋。

 窓際に、小さな椅子が置かれている。

 カーテンは閉じられたまま。

 その前に立つと、自然と足が止まった。

 ここから、彼女は外を見ていた。

 自分の代わりに、世界を歩く人間を。

 オサムは、ゆっくりとカーテンに手を伸ばした。

 少しだけ、開く。

 午後の光が差し込む。

 埃が、空気中で舞った。

 ――ここに、日和は立てなかった。

 その事実が、今さらのように胸を締めつけた。

 自分は、外を走っていた。

 文句を言いながら。

 疲れた顔をしながら。

 それでも、太陽の下を生きていた。

「……ずるいな」

 誰に向けた言葉か分からないまま、オサムは呟いた。

 夕方、机の引き出しを整理していると、

 見覚えのない鍵を見つけた。

 小さく、軽い。

 装飾のない、古い鍵。

 胸が、嫌な予感でざわついた。

 引き出しの奥。

 棚の裏。

 そして、書斎の一角にある、小さな扉。

 今まで、気にも留めていなかった場所。

 鍵は、ぴたりとはまった。

 扉を開けると、

 中は、ほとんど空だった。

 机と、椅子。

 そして、ノートが一冊。

 ――日記だ。

 その瞬間、オサムは理解した。

 日和は、もう戻らない。

 これは、残されたものだ。

 置いていったのではなく、託されたのだ。

 ノートに触れる指が、震えた。

 読むべきか。

 読まないべきか。

 だが、もう逃げる理由はなかった。

 オサムは、ゆっくりとページを開いた。

 そこから先に書かれている言葉が、

 自分の人生を、決定的に変えると分かっていながら。

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