第18話 変わってしまったもの

 最初に変わったのは、朝の呼吸だった。

 目が覚めた瞬間、胸が締めつけられるような感覚がない。

 アラームが鳴る前に、息ができている。

 それに気づいたとき、オサムはしばらく天井を見つめたまま動けなかった。

 ――ああ、俺、今……生きてるな。

 以前の朝は違った。

 目を開けた瞬間から、心臓が仕事のことを考え始める。

 今日も怒鳴られる。

 今日も足りない。

 今日も価値がない。

 それが、今はない。

 屋敷の廊下を歩く。

 足音がやけに大きく響く。

 日和の姿は、もうない。

 それなのに、気配だけが残っている。

 窓辺。

 カーテンの隙間。

 夜になると、無意識にそこを見てしまう。

 ――見られていた。

 その事実が、少しずつ重くなってきていた。

 出勤のために家を出ると、朝日が街を照らしていた。

 以前なら、目を細めて避けていた光だ。

 今は、なぜか直視できる。

 歩道を歩きながら、ふと思う。

 この光を、日和は見られなかった。

 その考えが浮かぶたび、胸の奥がじくりと痛む。

 罪悪感とは少し違う。

 もっと、逃げ場のない感覚。

 会社に着くと、同僚が声をかけてきた。

「最近、雰囲気変わったな」

「……そうですか?」

「なんていうかさ。

 前より、ちゃんと立ってる感じがする」

 オサムは返事ができなかった。

 立っている。

 その言葉が、胸の奥で反響する。

 営業先を回る足取りも、以前とは違っていた。

 断られても、頭の中で自分を責める声が小さい。

 ――それでも、いい。

 そう思える。

 夕方、橋の近くを通った。

 足が止まりそうになり、オサムは一瞬だけ立ち止まる。

 濁流は、あの日ほど荒れていない。

 ただの川だ。

 それでも、胸が苦しくなる。

 ――あの日、俺は死ぬはずだった。

 そう思った瞬間、

 日和の言葉が脳裏に浮かぶ。

「あなたが捨てた命、私がもらう」

 あれは、嘘だった。

 本当は逆だった。

 家に戻ると、屋敷は相変わらず静かだった。

 電気をつける。

 誰もいないリビング。

 それでも、オサムは小さく声を出した。

「……ただいま」

 返事はない。

 分かっている。

 なのに、言わずにはいられなかった。

 日和はもういない。

 それでも、彼女の人生は終わっていない。

 ――俺が、歩いているから。

 その事実が、重く、そして逃れられないものとして、

 オサムの背中にのしかかっていた。

 生きることは、自由じゃない。

 託されると、なおさらだ。

 それでも。

 オサムは窓を開け、夜の空気を吸い込んだ。

「……ちゃんと、生きるよ」

 誰に向けた言葉かは分からない。

 ただ、嘘にはしたくなかった。

 外では、街灯の下を誰かが走っていた。

 その姿を見て、オサムは初めて理解した。

 ――日和は、こんな気持ちで俺を見ていたのか。

 胸の奥が、静かに、しかし確かに痛んだ。

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