第16話 静かな準備
その日、日和はいつもより早く窓辺に立っていた。
カーテンは閉めたまま、ほんのわずかな隙間から外を見ている。
昼と夜の境目。
彼女が一番、長く起きていられる時間だった。
玄関のドアが開く音がした。
「……ただいま」
オサムの声は、少しだけ疲れていた。
だが、以前のような空洞はない。
「おかえりなさい」
日和は振り返らずに言った。
足音が近づき、少し離れたところで止まる。
オサムは、彼女が窓辺に立っているのを見ると、自然と声を落とした。
「今日は、契約が一件取れました」
「うん」
短い返事。
それでも、声の調子で分かる。
日和は、ちゃんと聞いている。
「……前なら、こんな日が来るとは思えませんでした」
オサムは笑った。
それは、自嘲でも照れ隠しでもない、ただの事実としての笑いだった。
日和は、その笑いを聞いて、胸の奥が少しだけ締めつけられるのを感じた。
――ちゃんと、生き始めている。
それは、彼女が望んだことだったはずなのに。
「ねえ、オサムさん」
「はい」
「もし、私がいなくなったら……どうしますか」
その問いは、あまりにも自然に、日常の会話の延長として投げられた。
オサムは一瞬、言葉に詰まった。
「……どう、って」
「今の生活が、全部なくなったら、です」
オサムはしばらく考え、正直に答えた。
「……怖いと思います」
「うん」
「でも、多分……前みたいには、ならないです」
日和は、その言葉を聞いて、目を伏せた。
それでいい。
それで、いいはずだった。
彼が、自分がいなくても生きていけるなら。
それこそが、彼女の役目の終わりだった。
日和は、窓から視線を外し、ゆっくりと振り返った。
「最近、夜が短く感じませんか」
「……そうですね」
「前より、朝が早い」
オサムは、その意味を考えかけて、やめた。
代わりに、穏やかな声で言う。
「季節、変わってきましたから」
日和は、微笑んだ。
――優しい人だ。
最後まで、踏み込まない。
踏み込めないのではなく、踏み込まない。
日和は、その優しさに救われながら、同時に背中を押されていることを自覚していた。
その夜、オサムが眠った後、
日和は一人、書斎に入った。
机の上には、分厚いノートが置かれている。
何度も書き直した跡。
ページの端は、少し擦り切れていた。
ペンを取る。
指先は、驚くほど落ち着いている。
――もう、迷わない。
日和は、静かに書き始めた。
〈今日は、オサムさんが笑っていた〉
〈それだけで、十分だと思った〉
文字は、丁寧だった。
一文字一文字を、確かめるように。
窓の外では、街の灯りが増えていく。
彼女が触れられない世界が、今日も続いている。
日和は、ペンを置き、深く息を吸った。
――準備は、整った。
明日、彼はまた走る。
自分の足で。
自分の人生として。
それを、もう窓越しに見なくていい。
日和は、ノートを閉じ、
部屋の灯りを消した。
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