第15話 走り出す日

 朝、目が覚めると、屋敷はいつもより静かだった。

 時計の針が進む音だけが、やけに大きく聞こえる。

 オサムはしばらく天井を見つめたまま、身体を動かさなかった。

 ――今日だ。

 昨日の夜、日和に言った言葉が、まだ胸の奥に残っている。

「働きたいです」

 それは決意というより、確認だった。

 自分がまだ、生きているかどうかを確かめるための。

 ベッドから起き上がり、顔を洗う。

 鏡の中の自分は、以前より少しだけ、輪郭がはっきりしていた。

 疲れていないわけではない。

 ただ、空っぽではなかった。

 リビングに行くと、日和が窓辺に立っていた。

 カーテンは閉じられたまま。

 それでも、彼女は外を見ている。

「おはようございます」

「おはよう」

 短いやり取り。

 それだけで、胸の奥が落ち着いた。

「……行ってきます」

 そう言うと、日和は少しだけ首を傾けた。

「無理は、しなくていいよ」

 その言葉が、ひどく重く感じられた。

 優しさではなく、覚悟を含んだ声だった。

 屋敷を出ると、朝の空気が肺に流れ込んだ。

 冷たく、はっきりとした感触。

 駅までの道を歩きながら、オサムは何度も立ち止まりそうになった。

 人の流れ。

 スーツの群れ。

 以前は、それだけで息が詰まった。

 だが今は違う。

 怖い。

 それでも、足は止まらなかった。

 求人票に書かれた会社は、小さなビルの一室にあった。

 受付も簡素で、華やかさはない。

 面接官は、淡々と質問をした。

「前職を辞めた理由は?」

 一瞬、言葉に詰まる。

 嘘はつけた。

 無難な言い回しもできた。

 だが、オサムは正直に答えた。

「……壊れました。

 続けられなくなったんです」

 面接官は、驚いたように瞬きをした。

 それでも、否定はしなかった。

「それで、なぜまた営業を?」

 オサムは、少し考えてから言った。

「逃げたまま終わりたくないからです」

 その言葉は、自分でも意外なほど、まっすぐだった。

 面接を終えて外に出ると、昼の光が街を照らしていた。

 眩しくて、思わず目を細める。

 ――日和は、この光を浴びられない。

 その事実が、ふと胸を刺した。

 だからこそ、歩く。

 走る。

 外の世界を、生きる。

 夕方、屋敷に戻ると、日和はいつものように窓辺にいた。

「どうだった?」

「……分かりません。

 でも、ちゃんと話せました」

 日和は、少しだけ微笑んだ。

「それで、十分」

 その言葉に、なぜか喉が詰まった。

 夜、オサムはスーツをハンガーに掛けながら思った。

 結果は、まだ出ていない。

 何も、始まっていないかもしれない。

 それでも――

 今日は、確かに「前に進んだ日」だった。

 布団に入る前、窓の方を見る。

 日和は、もうそこにはいなかった。

 代わりに、静かな夜だけがあった。

 オサムは目を閉じる。

 ――明日も、行こう。

 それは義務ではなく、

 誰かに与えられた命を、使い切るための一歩だった。

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