第14話 窓の距離

 朝、屋敷の中は静かだった。

 オサムはキッチンで湯を沸かし、二人分のカップを並べた。

 最初の頃はすべて用意されていたが、いつの間にか、彼がやるのが当たり前になっていた。

 紅茶の香りが立ちのぼる。

「……日和さん」

 呼びかけると、足音がして、彼女が現れた。

 相変わらず、カーテンの向こう側から離れない位置に立っている。

「おはよう」

 声は穏やかだった。

 だが、以前より少しだけ、距離があるように感じた。

「今日、早いですね」

「うん。たまたま」

 日和はカップを受け取り、両手で包むように持った。

 湯気が、彼女の白い指先を曇らせる。

「……最近、忙しそうだね」

「まあ、少し」

 本当は、少しどころではなかった。

 営業の成績は上向き始め、上司の態度も変わりつつある。

 皮肉なことに、追い詰められていた頃より、ずっと“普通”になっていた。

「外、楽しい?」

 不意に聞かれて、言葉に詰まった。

 楽しい。

 そう言ってしまえば簡単だった。

 だが、その言葉が、この部屋に似合わない気がした。

「……楽しいっていうより、忙しいです」

「そっか」

 それ以上、日和は何も聞かなかった。

 窓の外では、午前の光が街を照らしている。

 カーテン越しでも、それは分かるほど明るかった。

 オサムは、その光を背にして立っている自分に気づき、

 無意識に一歩、後ろへ下がった。

 昼過ぎ、出かける準備をしていると、

 日和が静かに言った。

「ねえ、オサムさん」

「はい」

「……私、ちゃんと役に立ってる?」

 唐突な問いだった。

「え?」

「ここにいて。

 あなたを助けて。

 意味、あった?」

 オサムは、すぐに答えられなかった。

 意味があったかどうか。

 それを判断する言葉を、彼は持っていなかった。

「……助けられました」

 ようやく出てきた言葉は、ひどく曖昧だった。

 日和は、少しだけ微笑んだ。

「なら、よかった」

 その笑顔を見て、オサムの胸が、かすかに痛んだ。

 外に出る直前、振り返る。

「行ってきます」

「いってらっしゃい」

 いつもと同じやりとり。

 なのに、なぜか今日は、足が重かった。

 玄関を出ると、強い日差しが降り注いだ。

 思わず目を細める。

 ――日和さんは、これを見られない。

 そう思った瞬間、

 胸の奥に、小さな罪悪感が芽生えた。

 走りながら、オサムは考える。

 自分は、前に進んでいる。

 確実に、外の世界へ戻っている。

 では、日和は?

 屋敷に戻った夜、

 日和は窓際に立ったまま、こちらを振り返らなかった。

「おかえり」

 声だけが届く。

「ただいま」

 その距離が、

 以前より少しだけ、遠くなった気がした。

 オサムは、何も言えず、

 そのまま部屋へ向かった。

 背中に、視線を感じた気がしたが、

 振り返ることはしなかった。

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