第13話 カーテンの向こう

 朝、目を覚ますと屋敷は相変わらず静かだった。

 時計の針が進む音と、どこか遠くで鳴る家電の低い唸りだけが、時間の経過を知らせている。

 オサムはベッドから起き上がり、しばらくその場に座っていた。

 夢だったのかもしれない。

 そう思いたかった。

 だが、肺の奥に残る違和感と、身体の重さが、すべて現実だと教えてくる。

 部屋を出ると、廊下の先に日和がいた。

 白いカーテンの前に立ち、外を見ている。

「おはようございます」

 声をかけると、日和はゆっくり振り向いた。

「おはよう。よく眠れた?」

「……はい」

 嘘ではなかった。

 久しぶりに、夢を見なかった。

 食卓には、湯気の立つ朝食が並んでいた。

 量は少なめだが、丁寧に作られている。

「食べられそう?」

「大丈夫です」

 向かいに座ると、日和は自分では箸を取らず、ただオサムの様子を見ていた。

「……日和さんは?」

「私は、後で」

 理由は聞かなかった。

 聞いてはいけない気がした。

 食事を終えた後、オサムは屋敷の中を少し歩いた。

 広い。

 だが、生活の痕跡が少ない。

 来客用と思われる部屋はどれも使われた形跡がなく、

 書斎には本が整然と並んでいるが、開かれたままのページはない。

「ここ、ずっと一人だったんですか」

 気づくと、そんなことを口にしていた。

 日和は少し間を置いてから答えた。

「……うん。基本は」

「寂しくないですか」

 日和は、すぐには答えなかった。

 代わりに、カーテンの端に触れる。

「慣れるよ」

 その言葉は、慰めではなく、事実のように聞こえた。

 昼前、外の天気が気になって、オサムは窓に近づいた。

 無意識に、カーテンに手を伸ばす。

「――開けないで」

 日和の声は、いつもより低かった。

 オサムは、慌てて手を引っ込める。

「すみません」

「いいの。……ただ、まだ」

 “まだ”という言葉が、引っかかった。

 午後、日和はソファに座り、膝の上でノートを開いていた。

 何かを書いているらしいが、オサムの位置からは見えない。

「日記ですか」

「うん」

「毎日?」

「書ける日は」

 ペンを走らせる音が、やけに大きく聞こえた。

 その横顔を見て、オサムは思った。

 この人は、生きているのに、世界と距離を取っている。

 夜になると、日和はまた窓辺に立った。

 外はすっかり暗い。

「夜は、好きですか」

 オサムが聞くと、日和は小さく笑った。

「嫌いじゃない。

 みんな、同じ色になるから」

「同じ色?」

「昼はね、みんな太陽の色をしてる。

 私はそれを、知らない」

 その言葉に、返事ができなかった。

 日和は、カーテン越しに外を見つめたまま言った。

「オサムさん」

「はい」

「ここに来て、後悔してる?」

 胸が、少しだけ締めつけられた。

「……いいえ」

 即答だった。

「そう」

 それだけ言って、日和は微笑んだ。

 その笑顔が、どこか安心したように見えて、

 同時に、ひどく危うくも見えた。

 その夜、オサムは布団の中で目を閉じながら考えていた。

 この屋敷は、安全だ。

 日和は、優しい。

 それでも――

 何か大事なものが、最初から欠けている気がした。

 それが何なのか、

 まだ、言葉にはできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る