第12話 重い。軽い。

 朝は、音が少なかった。

 屋敷は広いが、生活の気配が薄い。

 足音が響かないよう、床は柔らかく、

 扉はどれも、静かに閉まるよう作られている。

 オサムはキッチンで湯を沸かしながら、

 その静けさに、少しずつ慣れてきている自分に気づいた。

「……日和さん」

 名前を呼ぶと、返事はすぐに返ってくる。

「なに?」

 声は、いつも窓際からだった。

 日和は、今日もカーテンを少しだけ開け、

 外を見ている。

 朝の光は直接入らないよう、

 何重にも布が重ねられている。

 その背中を見ていると、

 彼女がこの家の中に“閉じ込められている”のか、

 それとも“守られている”のか、

 オサムには分からなくなることがあった。

「紅茶、入りました」

「ありがとう」

 日和は振り返らずに言った。

 オサムは、テーブルにカップを二つ置く。

 蒸気が立ちのぼり、

 その向こうで、日和の輪郭が少し揺れた。

 沈黙が落ちる。

 気まずさではない。

 だが、安心とも違う。

 オサムは、その沈黙が嫌いではなかった。

 会社では、沈黙は叱責の前触れだった。

 ここでは、ただ時間が流れているだけだ。

「……外、どうだった?」

 日和が、ふいに尋ねる。

「今日は、少し晴れてました」

「そう」

 それだけで会話は終わる。

 だが、オサムはその短いやり取りに、

 奇妙な重みを感じていた。

 日和は、外の話をするとき、

 いつもほんの少しだけ声が低くなる。

 それが、羨望なのか、

 諦めなのか、

 オサムには判断がつかなかった。

 昼前、オサムはスーツに着替えた。

 再就職の面接がある。

 ネクタイを締めながら、

 ふと視線を感じて振り返る。

 日和が、こちらを見ていた。

 じっと。

 まるで、何かを測るように。

「……行ってきます」

「うん」

 それだけ。

 玄関を出る直前、

 オサムは一瞬、振り返ろうとして、やめた。

 もし今、

 「不安だ」と言ったら、

 日和は、どんな顔をするだろう。

 その答えを知るのが、怖かった。

 夜、屋敷に戻ると、

 日和はいつもの場所に立っていた。

「おかえり」

「……ただいまです」

 今日は、うまくいかなかった。

 年齢の話。

 前職の話。

 遠回しな断り。

 それでも、オサムは、

 前ほど自分を責めていないことに気づく。

 代わりに、

 胸の奥に、別の感情が沈んでいた。

 ――もし、ここがなくなったら。

 考えてはいけないと思うほど、

 その想像は、現実味を帯びてくる。

 日和は、外を見たまま言った。

「ねえ、オサムさん」

「はい」

「生きるって、重い?」

 即答できなかった。

 重い。

 軽い。

 そのどちらでもない。

「……前よりは、ちゃんと重いです」

 日和は、少しだけ笑った。

「そっか」

 その笑顔を見た瞬間、

 オサムの胸に、鈍い痛みが走った。

 喜ばせているはずなのに、

 なぜか、

 取り返しのつかないものを

 一つ積み上げている気がした。

 窓の外では、

 街の灯りが、静かに瞬いている。

 オサムは思う。

 この距離は、

 近づいてはいけない。

 けれど、

 離れることも、もうできない。

 そのことだけが、

 重く、確かに、胸に残っていた。

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