第4話 落下と手
冷たさよりも先に、重さがきた。
身体が、何かに引きずられている。
水が耳の奥で唸り、方向感覚が失われる。
――息が、できない。
そう思った瞬間、胸が焼けるように痛んだ。
喉が勝手に開き、水が流れ込む。
だめだ。
だが、もう力が入らなかった。
手足が、自分のものじゃないみたいに遠い。
視界の端で、光が揺れた。
街灯だろうか。
それとも、幻か。
――見えてるってことは、まだ生きてるのか。
そんな考えが浮かんで、すぐに消えた。
水の中で、音は歪む。
雷鳴のような低い響き。
それに混じって、何かが近づいてくる気配。
誰かが、叫んでいる。
いや、違う。
声ではない。
もっと必死で、言葉にならないもの。
次の瞬間、腕を掴まれた。
はっきりとした感触だった。
冷たい水の中で、
確かに「手」があった。
――誰だ。
抵抗しようとしたのか、
それとも本能的に掴み返したのか、
オサム自身にも分からない。
ただ、指が何かを必死に握りしめていた。
身体が、上に引かれる。
水面に近づくにつれて、
胸の痛みが増していく。
限界だった。
口が水面から出た瞬間、
空気が肺に流れ込んだ。
咳が止まらない。
喉が裂けそうになる。
「……っ、……」
声にならない音が、勝手に漏れた。
何度か息を吸って、吐いて、
それでも身体は震え続けている。
視界が、少しずつはっきりしてきた。
濡れたコンクリート。
暗い空。
雨。
そして、自分の腕を掴んだまま、
膝をついている人影。
細い。
思っていたより、ずっと。
長い髪が雨に張りつき、
顔は伏せられていて、よく見えない。
――誰だ。
そう思ったが、声に出すことはできなかった。
身体が、言うことをきかない。
ただ、肺が必死に空気を求めている。
人影は、何度も息を整えながら、
オサムの腕を離さなかった。
まるで、離したら消えてしまうものを掴むように。
しばらくして、遠くでサイレンの音が聞こえた。
誰かが通報したのかもしれない。
あるいは、最初から鳴っていたのか。
オサムの意識は、また薄れていった。
最後に見えたのは、
こちらを覗き込む、白い顔だった。
驚くほど落ち着いた目。
その目と、ほんの一瞬だけ、視線が合った。
――ああ。
なぜか、その瞬間、
「助かった」と思った。
理由は分からない。
ただ、そう思えた。
次に目を覚ました時、
雨の音は消えていた。
代わりに、規則正しい秒針の音が、
静かな部屋に響いていた。
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