第3話 台風の夜
雨は、駅を出た頃には本降りになっていた。
傘を差しても意味がない。風が横から叩きつけ、スーツの内側まで濡らしてくる。
オサムは歩きながら、何度もスマホを見た。
画面には、さきほど届いた上司からのメッセージが残ったままだ。
〈今日の反省文、明日までに提出〉
反省文。
何を反省すればいいのか、もう分からなかった。
努力が足りない?
工夫が足りない?
覚悟が足りない?
――存在が足りない。
そんな言葉が、ふと浮かんだ。
改札を抜け、人気のない通路を歩く。
終電にはまだ早いが、人影はまばらだった。
天気予報では、今夜が台風のピークだと言っていた。
電光掲示板に「強風注意」の文字が流れている。
帰宅方向とは逆に、足が向いた。
理由はなかった。
ただ、いつもより強く吹く風に背中を押されるように、
体が勝手に動いた。
川にかかる橋は、夜になると人通りが少ない。
街灯が等間隔に並び、雨粒を照らしている。
橋の中央まで来たところで、オサムは立ち止まった。
川は、いつもより濁っていた。
雨水を飲み込み、黒く膨らんでいる。
欄干に手を置く。
冷たく、硬い感触。
――ここから落ちたら、どうなるんだろう。
そんな考えが、妙に現実味を帯びて浮かんだ。
スマホが、もう一度震えた。
今度は通知音だけで、内容を見る気になれなかった。
頭の中で、今日一日の光景が流れる。
朝礼での視線。
上司の舌打ち。
閉められたドア。
「空気が悪くなる」という言葉。
思い返せば、ここに至るまで、
誰かに「大丈夫か」と聞かれた記憶がない。
オサムは笑った。
自分でも驚くほど、乾いた笑いだった。
「……俺、よくやったよな」
誰もいない橋の上で、そう呟いた。
ちゃんと会社に行った。
怒鳴られても辞めなかった。
逃げずに走り続けた。
それでも、足りなかった。
欄干の向こうを覗き込むと、
川面がぐっと近づいた気がした。
雨音が、すべてをかき消している。
車の音も、人の声も、遠い。
――夜だ。
この時間なら、誰にも見られない。
迷惑もかからない。
そう思った瞬間、胸の奥がすっと軽くなった。
怖さは、意外なほどなかった。
代わりに、疲労だけがあった。
もう、考えなくていい。
もう、期待されなくていい。
オサムは、欄干に両手をかけた。
風が強く吹き、身体がよろめく。
それでも、手は離さなかった。
――これで終わりだ。
一歩、足を上げる。
その時、遠くで雷が鳴った。
白い光が、一瞬だけ世界を照らす。
橋の反対側、
暗い建物の窓に、かすかな灯りが見えた。
ほんの一瞬。
気のせいかもしれない。
だが、なぜか視線がそこに留まった。
――誰か、いるのか。
すぐに首を振る。
そんなこと、どうでもいい。
オサムは、足を踏み出した。
風が身体を持ち上げ、
次の瞬間、重力がすべてを奪った。
世界が反転する。
雨と闇が、同時に押し寄せる。
冷たい水が、全身を包み込んだ。
息ができない。
身体が重い。
それでも、なぜか思った。
――ああ、やっと終わる。
視界が暗くなり、
意識が、ゆっくりと沈んでいった。
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