第2話 パワハラと孤立
オサムが席に着くと、背後から椅子を蹴られた。
「朝からボーッとすんなよ」
振り向くと、上司が立っていた。
ネクタイは緩み、口元には薄い笑いが張り付いている。
「昨日の面談、覚えてるよな?」
「……はい」
「じゃあ、今日は結果出せよ。
“できません”は禁止な」
冗談めかした口調だったが、目は笑っていなかった。
オサムは黙ってパソコンを立ち上げた。
キーボードを打つ指先が、わずかに震えている。
周囲の同僚たちは、誰もこちらを見ない。
見ていないふりをすることで、自分を守っているのだと、オサムには分かっていた。
昼前、電話が鳴った。
「昨日の件ですが――」
丁寧に説明し、資料の内容をなぞる。
相手の反応は悪くないように感じた。
だが、途中で遮られた。
「すみません。
今は他社さんで間に合ってますので」
「……承知しました。
お時間、ありがとうございました」
電話を切った瞬間、背後から声が飛ぶ。
「今の、何?」
上司だった。
「いけそうだったんじゃないの?」
「はい、ですが――」
「“ですが”じゃねえだろ」
机を叩く音が、フロアに響いた。
「押せよ。
断られても、もっと行けるだろ。
それが営業だろ?」
何人かが、ちらりとこちらを見る。
すぐに視線は逸らされた。
「すみません」
それしか言えなかった。
「お前さ、
仕事向いてないんじゃない?」
冗談のように言われた言葉が、胸に刺さる。
午後、外回りに出た。
空は曇り、風が冷たい。
ビルの間を歩きながら、オサムは何度も同じ言葉を頭の中で反芻していた。
――向いてない。
それは、今まで必死に否定してきた言葉だった。
努力が足りないだけだ。
慣れていないだけだ。
そう思い込もうとしてきた。
だが、三十歳になっても結果は出ない。
評価は下がる一方。
味方はいない。
夕方、飛び込み営業先で露骨に嫌な顔をされた。
「忙しいんですけど」
「少しだけで結構ですので」
「だから、いらないって言ってるでしょ」
ドアが閉まる。
その前に立ち尽くしながら、オサムは不意に思った。
――俺がいなくなっても、
この人の一日は何も変わらない。
会社に戻ると、上司が待ち構えていた。
「どうだった?」
「……成果は、ありませんでした」
「はあ……」
深いため息。
「なあ、正直に言うぞ」
声を落とし、近づいてくる。
「お前がいると、空気が悪くなる」
その言葉は、殴るよりも痛かった。
「暗いし、覇気もないし。
周りも気ぃ使うんだよ」
オサムは唇を噛んだ。
「みんな、頑張ってるんだよ。
それなのに、お前だけ結果出せない。
分かるよな?」
分かる、と言うしかなかった。
「家に帰って、よく考えろ。
自分が会社にとって、必要な人間かどうか」
その夜、オサムは残業を断れなかった。
意味のない資料を修正し、誰も見ない報告書を作る。
時計が二十二時を回った頃、ようやく席を立った。
ビルの外に出ると、雨が降り始めていた。
冷たい雨が、スーツに染み込む。
駅へ向かう途中、橋の上で足が止まった。
街灯の光が、川面に揺れている。
ポケットの中で、スマホが震えた。
〈今日の反省文、明日までに提出〉
画面を見つめたまま、指が動かなくなる。
反省。
改善。
努力。
何度、同じ言葉を書いてきただろう。
オサムは欄干に手をかけた。
冷たい金属の感触が、やけに現実的だった。
――俺が消えたら、
この会社は、少し静かになる。
誰にも迷惑をかけずに済む。
叱られることもない。
期待されることもない。
雨脚が強まる。
その時、背後でクラクションが鳴った。
振り向いても、誰もいない。
ただ、夜の街だけが広がっていた。
オサムは、ゆっくりと欄干に体重をかけた。
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