セカンドライフ

イミハ

第1話 数字の無い世界

 朝はいつも、アラームより先に目が覚める。

 正確に言えば、眠りが浅いまま、無理やり意識が浮上するだけだ。

 オサムは天井を見つめながら、今日の予定を頭の中でなぞった。

 九時出社。朝礼。進捗報告。

 十時半、A社。十二時、B社。

 午後は飛び込み三件。

 夕方に上司との面談。

 最後の予定を思い出しただけで、胃の奥が重くなる。

 シャワーを浴び、鏡の前に立つ。

 三十歳。目の下にはクマ。口角は下がったまま。

 ネクタイを締める動作だけは、もう無意識でできる。

「……行くか」

 誰に向けたわけでもない独り言を落として、玄関を出た。

 会社は、駅から徒歩十分の雑居ビルに入っていた。

 看板は新しく、内装もそれなりに綺麗だが、空気だけが妙に重い。

 朝礼では、上司が数字を読み上げる。

「今月の達成率、全体で七十二パーセント。

 ――で、オサム。お前は?」

 全員の視線が刺さる。

「……六十五です」

 一瞬の沈黙のあと、舌打ち。

「だから言ってるだろ。

 気合が足りないんだよ。やる気あるのか?」

 やる気、という言葉が何を指すのか、もう分からなかった。

 睡眠時間を削ることか。

 断られても頭を下げ続けることか。

 人格を削ることか。

「……すみません」

 それ以外の言葉を、オサムは持っていなかった。

 午前中の訪問は空振り続きだった。

 丁寧に説明しても、興味を持たれることはない。

「検討します」

「今は間に合ってます」

 断り文句のバリエーションだけが、無駄に増えていく。

 昼食はコンビニのおにぎり一つ。

 ベンチに座り、スマホを見るが、連絡はない。

 ――誰にも、期待されていない。

 ふと、そんな考えが浮かんだ。

 午後の飛び込み営業では、露骨に迷惑そうな顔をされた。

 ドアを閉められる瞬間、こちらの存在が消える感覚がある。

 夕方、会社に戻ると、上司に呼び止められた。

「ちょっと来い」

 狭い会議室。

 ドアが閉まる。

「なあ、お前さ」

 上司は椅子にふんぞり返り、鼻で笑った。

「正直、邪魔なんだよ。

 数字も出せない。覇気もない。

 他のやつの士気が下がる」

 オサムは何も言えなかった。

「辞める気ないの?」

 一瞬、頭が真っ白になった。

 辞めたら、どうなる?

 次は?

 生活は?

「……頑張ります」

 自分でも驚くほど、か細い声だった。

「はあ……。

 まあいい。

 とにかく結果出せ。

 できなきゃ、分かってるよな?」

 会議室を出た時、足が少し震えていた。

 帰り道、空は不自然なほど暗かった。

 台風が近づいているらしい。

 強い風に煽られながら、オサムは橋の上で足を止めた。

 川は、増水している。

 街灯の光が、濁った水面に歪んで映る。

 スマホが震えた。

 上司からのメッセージ。

〈明日、朝一で数字持ってこい〉

 指が動かなくなった。

 ――もう、無理だ。

 そう思った瞬間、胸の奥で何かが切れた。

 努力が足りない。

 根性がない。

 社会不適合者。

 貼られ続けたレッテルが、最後に一つの答えを作った。

 ここで終われば、もう何も求められない。

 数字も、笑顔も、謝罪も。

 欄干に手をかける。

 風がスーツを叩く。

 夜だ。

 街は、彼を見ていない。

 オサムは、静かに一歩踏み出した。

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