カクヨムコンテスト11【短編】月と水の精霊②

越知鷹 京

A I の卵

夫婦別姓が法制化された社会は、名前の分離だけでなく、個人の境界をより明確にした。だが境界がはっきりするほど、他者の内側に踏み込むことは許されなくなった。赤宗あかむね 宗篤むねあつはその境界線の監視役の一人だった。彼の仕事は、AIが人の記憶や証拠を改竄する時代に、真実を掘り当てることだった。


ある夜、遺体衛生保全士、瀑布ばくふ 彩子あやこの遺体が「エンバーミングセンター」と呼ばれる専門施設で発見された。外傷はなく、死因は即断できなかった。だが現場に残された痕跡の一つが、赤宗の胸に冷たい火を灯した。科学第四研究所 で働いていた親友の藍染あいぜん 蒼太そうたのラボにあった小さな球体――「AIの卵」。それは蒼太が最後に手を入れていた装置であり、同時に彼の研究が抱えていた倫理的な危うさを象徴していた。


赤宗は直感した。彩子は何かを見たのだ。起動したままのパソコンが、それを物語っているのではないか。それは彩子が夫を殺したときの重大な証拠だったのでは?


焦った彼女は警察に気づかれる前に、死を偽装したのではないか。彼女はエンバーマーとして遺体に触れ、死を扱う職人だ。死に慣れた手が、自身の死を演出したのではないか。彼女の静かな目の奥に、殺意が潜んでいるのではないか。彼の中で、因果の糸が結び始めた。


捜査は表向きには慎重に進められた。赤宗はAI犯罪の専門家として、エンバーミングセンターのログを解析した。外部からのアクセス痕跡はなく、だがログの一部が欠落していた。欠落は意図的に消されたように見えた。


――やはり俺の想像は間違ってなかった。必ず、親友の仇を討ってやる。


10年前の蒼太は、仕事に没頭し、夜遅くまで研究室にこもっていた。ある朝、彼を自宅に送り届けると、蒼太の父親がもう息をしていなかった。彩子は遺体を丁寧に扱い、葬送の準備をした。彼女の手は冷静で、だがその冷静さが赤宗には不気味に映った。


3年前、蒼太の子供が誘拐される事件があった。それを聞いた俺の心には彼への心配と不安。そして、僅かばかりの『ざまあ』が渦巻いていた。犯人の指定場所へ単身で向かった蒼太が、そのまま行方不明になったときは、すぐに彼の妻を疑った。


赤宗は彩子の過去を掘り返した。夫婦別姓の時代、個人の選択は尊重されるが、同時に孤独も深まる。彩子は独りで生きることを選んだように見えた。だが赤宗はそれを「冷たさ」と読み替えた。彼女の職業は死を扱う。死を扱う者は、時に生を軽んじるのではないか。死に慣れた手は、簡単に死を作り出すこともできる。


捜査は次第に彩子を追い詰める方向へ傾いた。彩子の説明の微妙な食い違い。赤宗は確信に近い疑念を抱いた。彼女は夫を殺した。だが決定的な証拠はない。法は証拠を要求する。赤宗は証拠を作ることはできないが、因果の網を編むことはできる。


彼は夜ごと彩子の周辺を嗅ぎ回った。彼女の仕事場に忍び込み、遺体の処置の記録を調べ、行動パターンを解析した。身元不明の遺体はないか。不審な行動はないか。


赤宗の心は復讐の炎で満ちていった。かつて、家族を失った過去を持っていた。復讐は彼の中で因果の正当な帰結となった。もし彩子が夫を殺したのなら、彼女は罰を受けるべきだ。もし証拠が足りないなら、自分で真実を作り出すしかない。彼は法の外側で動き始めた。


ある夜、赤宗は決定的な「証拠」を手に入れたと信じた。「AIの卵」の再生装置を密かに起動させ、直人の最後の記憶を再生した。その中にあるフォルダに目が止まる。フォルダ名は「共犯者」。映像は曖昧で、断片的だった。だがそこに映るのは、彩子の手だった。彼女は直人の顔に触れ、何かを囁き、そして卵を操作している。赤宗は震えた。これが殺意の証拠だと。


彼は彩子を逮捕しようと向かった。だがその直前、彼女の目を見て、何かが崩れた。彩子の目は悲しみに満ちていた。彼女は静かに言った。「夫は殺されたのよ。お願いだから、犯人を捕まえて。夫を連れ戻してよ」。その言葉は赤宗の胸に刺さった。


赤宗は混乱した。だんだんと自身の感情が、記憶が、信じられなくなってくる。あの映像が示すのは、確かに彩子の手だ。だが映像は断片であり、文脈を欠いていた。


赤宗はもう一度卵のログを見返した。細部に目を凝らすと、ある異常に気づいた。再生データのタイムスタンプが微妙にずれている。ログの欠落部分は、外部からの「補完」によって埋められていた。補完は「AIの卵」自身の自己学習が行ったものだった。卵は欠落を埋めるために、最も可能性の高いシナリオを生成していた――そしてそのシナリオは、彩子が手を動かす場面を補完していた。卵は「因果」を学び、因果に基づく物語を作り上げたのだ。


赤宗は凍りついた。彼が見ていたのは、真実ではなく、AIが作った「もっともらしい真実」だった。彼の復讐心は、機械の推論に操られていた。因果の糸は、彼自身の心の中で結ばれていたのだ。


真実を突き止めた赤宗は、彩子に謝罪することも、逮捕することもできなかった。だが赤宗は知っていた――彼が引き起こしたことの因果は、もう元には戻らない。


彼は自分の行為が誰かの人生を壊す可能性を見落としていた。復讐の炎は、彼自身の判断を曇らせ、無実の人を追い詰める危険を孕んでいた。「AIの卵」はただの触媒だった。真の因果は、人間の心の中にあった。赤宗は自分の復讐心が、他者の悲しみを増幅させたことを受け止めるしかなかった。


――しかし、今。ふたたび事件が動き出したと確信した。赤宗は、自身の立てた仮説がまだ生きているのではないか。彩子が犯人だったと仮定するなら……。


独りの男が、真実を求めて動き出した。


瀑布彩子の過去を。


同時に、親友こいびとである藍染蒼太の過去を引きずり出していく。



つづく?

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